祖父、
在田稠   
             (ありた しげし)
    

△「時事漫画」132p3 所蔵:さいたま市立漫画会館  

▽画帳より、「菊花大会」 所蔵:さいたま市立漫画会館 

*2020年6月10日、大幅に改訂。

在田稠は明治中期から大正、昭和初期を生きた漫画家。
そして私の母方の祖父である。            

   

【在田稠(ありたしげし) 明治20年(1887)—昭和16年(1941)】

宮城県遠田郡出身、旧制中学卒業後に上京し、白馬会洋画研究所をへて東京美術学校洋画科に学ぶ。

風刺漫画雑誌「東京パック」(第一次)の編集に携わったのをきっかけに、その出版元「有楽社」、その後「時事新報社」に入社する。

その間に各誌へ執筆、漫画を描くようになり、書籍や楽譜の表紙・装幀なども多く手掛け、ポスター類も作成した。

東京の漫画記者を中心とする「東京漫画会」に名を連ね、また「日本漫画連盟」も発足させ、戦前の日本近代漫画の一翼を担う。

40歳頃から手が震えるなどの奇病(パーキンソン病)を発症するが、第二次〜三次にも関わった「東京パック」が新体制で第四次の創刊をすると主宰者の一人として請われ、余命を費やす如く「時事新報社」を辞して参加する。やがて悪化して離職、東北帝大にて治療をするも完治せず、家族の移り住んでいた大阪にて昭和21年(1941)に没する。

▽ポスター「JUNG BORN」(印刷)詳細不明 所蔵:さいたま市立漫画会館  

*上記以外に彼は自身の経歴において「南洋の無人島探検漂流して帰る」なる項を述べるのが常であった。よほど印象深い経験だったと思われる。

 

作品のほとんどは「東京パック」「楽天パック」「時事漫画」「新潮」「文章倶楽部」「少年倶楽部」「東海道漫画紀行」などの寄稿や共著、書籍装幀などのデザインであるが、個人での著作本は「頓智杢太郎:漫画双紙」磯部甲陽堂刊、「魂の旅:詩集」銀皿社刊がある。

 

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    *        *        *

 私が生まれた時とっくに他界していて、思い出は一切無く、恥ずかしながら、祖父の姿が見え出したのは、最近調べ出してからである。彼の盛んな活動に反して、家族達が余り語らなかったのは晩年の病が影響していたようである。

その生涯の年表を以下に記すが、とにかく情報を盛り込んだ私的な覚え書きに近い。

・資料は相違と欠落が多く、大いに推測を加えつじつまを合わせ、関係する周辺事情、大きな社会情勢も記した。

  

「年譜」

  

明治20(1887) 8月4日 稠、在田亮(ありたまこと)の長男として誕生。

・ 生地は宮城県遠田群不動堂村四十六番地:現、美里町の不動堂地区。

父は不動堂小学校の校長兼教師の在田亮(まこと)、母とみほ、祖父寛龍(かんりゅう)は皎善寺の住職、祖母しもよ。住居は寺に隣接していたと思われる。

 翌年に祖母しもよ死去。

明治22(1889)      <大日本帝国憲法発布>

明治24(1891) <第一回衆議院議員選挙>

・この頃、在田亮の優秀な生徒であった千葉亀雄(ちばかめお)氏は皎善寺及び在田宅に招かれて学習し、遊ぶ時には稠も交じっていた。

・千葉亀雄は後にジャーナリスト、文芸評論家となり「新感覚派」の命名など日本文学の推進へ大いに貢献する。彼は不動堂村にて過ごした頃の様子を、在田亮先生に捧ぐと記した著作「いざ、さらば」にて発表している。

明治27(1894) 父が校長であった不動堂小学校に入学、尋常科を過ごす(尋常高等小学校)。

9月2日 母とみほ死去。

<対清宣戦布告:日清戰争>

▽「海近く」/水彩画 詳細不明 所蔵:さいたま市立漫画会館      

 

明治28(1895) 父が後妻のフミをめとる。

<日清講和条約>

 

明治29(1896) 稠の妹ミツエ(光枝)が生まれる。

           <第一回国際オリンピック>

 

明治32(1899) 11月10日 祖父 寛龍死亡、

そのわずか四日後の11月14日に父 亮病死。

・寛龍はおそらく「激症型の衝心脚気」、亮は肺病を永く患っていたので、寛龍死亡による疲れが一気に弱っていた彼の心身を襲ったと思われる。なんと葬儀は二つの棺が連なると言う有様であった。

・残された家族は転居するが場所は不明、しかし小学校通学からおそらく村内。

           

明治33(1900) 4月5日 小学校高等科卒業。

・昨年からの生活激変により、そのまま中学進学は困難だった?

<清国義和団事件><治安警察法公布>

明治34(1900) この間の動向は不明。

▽中学時代のスケッチ/鉛筆、水彩 A5              

明治35(1902) 4月仙台第一中学校(現在の仙台第一高等学校)入学。

・いとこ(もしくは遠縁)の柴田勝衛(しばたかつえ)が先輩におり親しく交流、下校時などはよく一緒であった(年齢は稠が一歳上)。どこかの時点で彼は秋田の中学へ。

・この頃から「ハガキ文学」「中学世界」「文章世界」等の雑誌へ、コマ絵や草画を盛んに投稿。「其時分よく投書した連中に山田清、同じく實、池田永治、木下茂、萬代恒志、前川千帆、本田庄太郎、生駒翠山、櫻井知足等。雑誌に写真が出たりして居たが後に東京で会うて想像と同じ人も違った人もありました。」文章倶楽部第四年第十号より

・昆虫、植物、鉱物の採集によく出かけ、博物学が好きで昆虫学者か博物学者になるつもりでいた(小学生時代?)。

・小学校時代に体が弱かった所為か、中学時代は運動が非常に好きになり得意となる、撃剣、ボート、機械体操、スケートなど種々。

 <日英同盟><八甲田山事件>

 

明治37(1904) <対露宣戦布告:日露戦争>

 

明治38(1905) 中学4、5年になるに従って成績が悪くなり、絵の方へひどく傾く。広瀬川の湖畔によく写生。

*4月、画期的な漫画雑誌「東京パック」が北沢楽天の編集で、有楽社から刊行。

・ 「東京パック」は日本初の全カラー漫画雑誌。B4変形判、全12ページカラー漫画、説明文などに日本語・英語・中国(支那)語が併記されると言う先進的編集で創刊されると、たちまち大人気となった。この時期の刊行は第一次「東京パック」と呼ばれる。

・ 北沢楽天(きたざわらくてん:明9—昭30)、日本初の職業漫画家、また日本近代漫画の祖ともされている。

・ 「有楽社」は中村弥二郎(明5−昭19)が明治36年に設立した出版社。

 <日本海海戦><日露講和条約>

明治40(1907) 3月、中学校卒業。

・ 学籍簿は明治35〜40年で中学の修学年限5年とも符合する。畧歴や履歴書では相違しており、8年在籍していた事になっている。その意図は何か?当時は主流の数え年に対し満年齢使用の発布、また学生制度もコースが幾つも存在した上に度重なる改変がおこなわれた。おそらくそんな煩雑さに乗じるかたちで、幾つかの事実を新たなストーリーで覆ったと考えられる。金銭的苦境から進学が遅れた、柴田氏との年齢差、美術学校の在籍期間など。

・「田舎で中学を出て太田美方と云う洋画家にデッサンを習って居ました」文章倶楽部第四年第十号より

青山学院高等科に通う柴田勝衛氏を頼り上京。

白馬会本郷研究所(白馬会洋画研究所:菊坂洋画研究所のち原町へ)に入る。

これ以降に当所は東京美術学校の予備校的なとられ方が顕著化する。

明治41(1908) 東京美術学校洋画科(現 東京芸術大学 美術学部の前身)へ入学。

・長原孝太郎、和田英作、黑田清輝、藤島武二氏等に指導を受け、同輩には後に帝展審査員となる牧野虎雄氏、高間惣七氏(?明治43年入学)や吉村芳松、熊岡美彦氏等、また第3年には鈴木良治、第4年には藤田嗣治、山下釣(池部釣)、近藤浩、岡本一平、選科第四年に森田太三郎がいた。

『「かがり火」第一巻第二号 かがり火発行所刊』明治41/4へ在田稠:挿画(農女)*佐藤生巣:表紙画裏絵

・「私の下宿に丁度同国の先輩佐藤生巣氏が居て盛にスケッチしたり、版下を描いたりしていたので自然刺激もあったらしいのです。時々氏の室でモデルを雇い数人集ってはスケッチ会をやったりしました。太田三郎氏も生巣氏の友人で時々来られました。」—文章倶楽部、掲載記事よりー

<戊辰詔書(日露戦争後の社会的混乱等を是正、また今後の国家発展に際して必要な道徳の標準を国民に示した、明治天皇の命令を直接に伝える文書) 発布><赤旗事件>

明治42(1909) 9月より東京美術学校洋画科第二年。

・第一年に森島直造(直三)、小林克己、山田実、服部亮英が入学。

<伊藤博文、暗殺>  

明治43(1910) 9月より東京美術学校洋画科第三年。

<大逆事件、起こる><韓国併合>

・ 天皇暗殺を企てたとして、幸徳秋水ら社会主義者が大量に検挙され、翌年12名が絞首刑に。この事件で、強まっていた言論思想(天皇に危害を加える様な)取り締まりが一段と進む。

明治44(1911) 「南洋の無人島探検漂流して帰る

アカデミックな画法あき足らぬ心と、思想上の煩悩、家庭上の変化により学資が絶える事で、陰鬱な状態へ。(学資が絶えた仔細は不明、ただ4月 継母フミは実家へ籍を戻し、娘ミツエの籍は在田家のまま)

逃避するように、南洋の無人島へ採掘に行く船に忍び込むが島を目前にして大台風に遭い、着岸出来ず船は破損。一月余り漂流して九州の端くれの島へなんとか到着し、そこから東京へ、無一文で歩いたりして帰る(8〜9月?)。

計画が無茶になり、もう東京美術学校に籍もなく、不安な日々に。

東京にて暮らしていた千葉亀雄氏に助けられ、宅へ世話になる。その間に自分の表現をしたいと試み、今迄の写実的画風が一変。(これ以前から同郷の稠、柴田氏と千葉氏は交流していたと思われる。)

・「東京パック」は大逆事件を受けて、社会主義よりの編集を改め、反対に批判する論調に移って行く時期だが、それは日本のジャーナリズム全体の傾向であった。

<辛亥革命、清滅亡>

明治45(1912) 千葉氏の紹介で平福百穗氏に推薦され新潮社の仕事をする。

『徳田秋聲「塵」新潮社刊』(1月)、『徳田秋聲「足迹」新潮社刊』の装幀(署名がなく不確定)。

・ 大正2年の「爛」も稠が装幀したと思われるが、実は上記も含め署名(サイン)がなく不確定だ。しかし以後、新潮社から出された徳田秋聲著作の多くの装幀に、稠の署名が入りデザインも類似している。「哀史」(大正3年)、「あらくれ」(大正4年)、「奔流」(大正5年)「小説の作り方」(大正7年)などである。おそらく初期の仕事では署名まで考えが及ばなかったのだ。

・地方新聞の挿絵を描いたり、川端龍子氏に仕事を分けて戴いたりした(年月日、詳細不明)。

5月『「新潮」新潮社刊』に執筆、その後に表紙を描く。

・ 5月の執筆が漫画であるかは不明だが、稠が任されるからには絵入りにほぼ間違いない。当時の出版では写真の印刷画像が悪く、それを補う為に挿絵や似顔絵がよく使われ、画家達の余技的収入などになっていた。美術の学生などに執筆させていた「東京パック」同様、他社もそうであった。

北沢楽天主筆の「東京パック」編集へ。

5月に楽天が去り、桑田春風の編集による第二次「東京パック」(六月一日号)創刊(*五月十日号、五月二十日号は休刊)。引き続いて稠は小川治平、森田太三郎らとスタッフとして回される。

・楽天が「東京パック」(有楽社)を辞したのは経営者の中村弥次郎が放漫経営で多額の借財をかかえ、「東京パック」も担保にした事で楽天と仲たがいしたと言われている。その一方で、誌が売れ行き不振に陥っていたとか、楽天が法外な報酬を取り「有楽社」にあまり利益が無かったなどの話がある。確かに経営は放漫、楽天の報酬も高額であったらしい、それらが絡まった顛末なのだろう。

・その時すでに楽天は「東京パック」にて、漫画家たらんとする人材を求めて募集を出し、以降に稠と行動を共にする森田太三郎、原誠之介、近藤浩、そして明治43年頃には小川治平が参加。また下川凹天は明治39年(1906)に楽天へ弟子入りし手伝いをしていた期間があるが、1907年に破門され離れていた。幸内純一は1907年に東京パック(有楽社?)へ入社していたが、この12月には東京毎夕新聞へ。近藤浩はこの頃京都で1年ほど教師をしているのでこのタイミングで向かったのかもしれない。この間の原誠之介の動向は不明。

・楽天、6月「楽天パック」7月「家庭パック」(楽天社)を発刊。下川凹天は楽天の「楽天パック」発刊を聞き、再度訪れたところ破門を許され「楽天パック」に加わる。

「楽天パック」は社会風刺を中心とする漫画雑誌で、「家庭パック」は婦人・子供向けのグラフ雑誌のような物であった。しかし振るわず「家庭パック」は大正2年、「楽天パック」は大正3年に終刊する。

・岡本一平、『朝日新聞』に新しい漫画を発表するようになり、楽天と並んで日本漫画界の双璧と称される。

<天皇崩御、大正と改元><中華民国、成る> 

▽「時事漫画」155p9 所蔵:さいたま市立漫画会館      

大正2年(1913) 有楽社入社。

この頃に千葉氏宅から、自活。

・「東京パック」発行が、「有楽社」から「合資会社有楽社」へ。在田稠の自叙伝では、有楽社(債権者らによる新体制の?)に入り森田太三郎と二人で東京パックをし、それから博秀社(合資会社有楽社と同じ住所の印刷所)に移り小川治平、山田みのる、下川凹天、川目達ら(原誠之介も?)と一緒になった、と記載。他に森田氏が編集長をしたとの記録があるので、この時に桑田氏は抜けた?

・また履歴書には「有楽社」で絵画雑誌編集とあるので、「東京パック」以外も手がけていた?

10月『俳句雑誌「層雲」第三巻第7号 層雲社刊』に木版画挿絵。

この年の「新潮」にも稠の執筆。

『徳田秋聲「爛」新潮社刊』の装幀(署名がなく不確定)。

『小川未明「廃墟」新潮社刊』の装幀、署名あり。

『「文学新語小辞典」新潮社刊』の装幀、署名あり。10月

・楽天の「家庭パック」振るわず終刊。

<対独宣戦布告、第一次世界大戦>

▽「へちまの下で三味線をひいている女性」/水彩 詳細不明 所蔵:さいたま市立漫画会館 

大正3 (1914) 楽天パックへ。

創刊から1年ほどで楽天は「時事新報」へ力を入れ始め、実質的に山田みのる、服部亮英、在田稠、下川凹天が執筆していた。

10月に下川凹天は大阪朝日新聞に入社。

『ユーゴ作 徳田秋聲訳編「哀史」新潮社刊』の装幀。

『緑川春作「恋百題」木版挿画 二葉/竹久夢二、新潮社刊』の装幀。

『月刊少年雑誌「少年倶楽部」大日本雄弁会(講談社)刊』に執筆。創刊号(大正3年11月)は「山家の小國民(口絵)」、その後も「愛の若武者:漫書蹠物語」などを執筆。

大正4 (1915) 4月「有楽社」を辞す。

5月「東京時事新報社」意匠部(後に絵画部も兼ねる)へ入社。

すでに同社へ入社していた柴田勝衛氏の計らいだが、千葉亀雄氏も社会部に居り助力したと思われる。

このタイミングで柴田家宅にて同居。

 ▽「時事漫画」219p4 所蔵:さいたま市立漫画会館 

『徳田秋聲「あらくれ」新潮社刊』の装幀。

新潮社刊の縮刷傑作文庫の装幀、「第一編 国木田独歩『運命』」「第二編 田山花袋『縁』」「第三編 田山花袋『妻』」。

・6月27日、調布の玉華園において漫画記者ら(東京漫画会)が、「漫画祭」を催す

・合資会社有楽社による「東京パック」年末に終了、最後まで稠が携わっていたかは不明。

<日華条約、調印>

 

大正5 (1916) 2月27日 鶴見の玉華園にて第二回漫画祭。

おそらくこの時に「東京漫画会」の正式発足。

参加者は北沢楽天(時事新報)、平福百穂(国民新聞)、山下均(国民新聞)、代田収一(都新聞)、細木原青起(東京日日新聞)、小川治平(やまと新聞)、近藤浩(読売新聞)、岡本一平(東京朝日新聞)、岡田九郎(時事新報)、本間国生(東京日日新聞)、三上知治(国民新聞)、鈴木良治(時事新報)、在田稠(時事新報)、清水対岳坊(萬朝報)、太田義一(報知新聞)、幸内純一(東京毎夕新聞)、佐藤眞也(東京毎日新聞)、下川凹天(労力新聞?)

△川崎市民ミュージアム所蔵の下川凹天氏の記録

おそらく下川凹天氏が後年にまとめた物で、年代に関しては間違っていると思われる。たぶん他の資料を参考にしてコメントを補足した際に、世間的に認識されている東京漫画会発足の大正4年(6月27日)をそのまま使ったのだろう。しかしその集まりの時には下川氏も在田稠も参加していない、この記事は大正5年2月27日の第二回漫画祭のものである。つまり下川氏は東京漫画会が生まれた第一回の集まりに自分は参加していたと認識していたのである。在田稠も第一回から会員であると他で記している。そして記事には東京漫画会の名称が使われていない。推測するとこの写真の後、第二回漫画祭が催されて宴席となった時に東京漫画会の正式発足が成されたのではないだろうか。しかしそれでは漫画祭が東京漫画会の催しである図式から前年の第一回漫画祭が外れてしまう。漫画祭=東京漫画会の催し、とした方が明らかに世間的には分かりやすい。いつしか対外的な考慮から正式発足よりも第一回漫画祭の集まりが東京漫画会の発足となったのだろう。

『徳田秋聲「奔流」新潮社刊』の装幀。

新潮社刊の縮刷傑作文庫の装幀、「第四編 田山花袋『生』」。『田山花袋「時は過ぎゆく」新潮社刊』の装幀。新潮社から発行された田山花袋の本の多くを装幀。

5月、新潮社より創刊された「文章倶楽部」へ表紙や漫画などを寄稿しだす。(大正12年7月号まで)。

11月1日〜7日第一回漫画展覧会、三越呉服店にて。

『「文壇失敗談」文壇樂屋雀編著 大日本新聞學會出版部発行』の装幀。

大正6 (1917) 5月26日芝浦にて第三回漫画祭。

9月15日〜21日第二回漫画展覧会、三越呉服店にて

『田山花袋「一兵卒の銃殺」新潮社』の装幀

「中山晋平 萱間三平作曲 新作小唄第四篇 北原白秋氏歌 『さすらひの唄』(特製)山野楽器店」木版装幀。

「中山晋平 萱間三平作曲 新作小唄第二篇 長田秀雄氏歌 『海の唄』山野楽器店」の装幀。発行年不明。

「中山晋平作曲 新小唄 島村抱月・相馬御風雨氏作歌 『カチューシャの唄』山野楽器店」の装幀。発行年不明。

 <ロシアで社会主義革命> 

 

大正7 (1918) この頃にキクと出会う。

山口から上京してキクは、稠と柴田氏がよく通った銀座の飲み屋にて働いていた。

3月3日向島百花園にて第四回漫画祭。

9月11日〜15日第三回漫画展覧会、三越呉服店にて。

『徳田秋聲「小説の作り方」新潮社刊』の装幀。

『金子薫園「叙景文練習法」文芸練習法叢書 新潮社刊』の装幀。

2月『ツルゲーネフ作「薄倖の少女」新潮社刊』の装幀。

『「少年」時事新報社』へ執筆、7月号「凸坊の失敗」など

・楽天は弟子を養成するための漫画好楽会という研究会を結成。その成果を、大正10年2月から新聞日曜付録として定期刊行される『時事漫画』に掲載させた。

<シベリア出兵><第一次世界大戦、休戦>

「頓智杢太郎:漫画双紙」磯部甲陽堂刊            

大正8 (1919) 3月11日、キクと結婚。

キクはこの頃、柴田氏宅でお手伝いをしていた。新居を構える、東京府豊多摩郡代々幡町北笹塚1153番地(大正11年の記録)。

3月 潮来にて第五回漫画祭。

4月17日刊 『邦枝完二作歌、中山晋平作曲「旅は遥かよ」新作小唄第三篇 山野楽器店発行』に木版装丁。

・芥川龍之介の日記(日録)大正8年6月10日「十日会」のくだりに在田稠の名。「—それから十日會へ行く。會するもの岩野泡鳴、大野隆徳、岡落葉、在田稠、大須賀乙字、菊池寛、江口渙、瀧井折柴等。外に岩野夫人等の女性四五人あり。遲れ馳せに有島生馬、三島章道を伴ひ來る。」

・ 「十日会(會)」とは、当時大久保あたりに住んでいた作家岩野泡鳴宅を会場に、蒲原有明・戸川秋骨・正宗得三郎等の文人が始めた集まり。やがて場所を万世橋の西洋料理店「みかど(ミカド)」へ移す。それが大正5・6年から12年の大震災までの時期で、会費は1円ないし1円50銭。この頃に出入りしていたのが、菊池寛・久米正雄・田中純・芥川龍之介・徳田秋声・齋藤茂吉・広津和郎らで、主に若手の文学者や女流作家(画家や歌人が多かった)・作家志望の青年などが参加していた。 参考文献:ホームページ KANDAアーカイブ>神田資料室

6月『「頓智杢太郎:漫画双紙」磯部甲陽堂発行』を出版。

『「恋と算盤」:漫画双紙』磯部甲陽堂発行』漫画会同人著

8月「東京パック」が下田憲一郎によって復刊し、漫画寄稿。

・ 下田憲一郎(しもだけんいちろう:明22−昭18)は秋田県出身のジャーナリストで、「東京パック」発行の権利を譲り受けると東京パック社を設立、第三次「東京パック」(八月)を復刊、編集をする(サイズは小さくA4変型になり月刊)。

・平井太郎(後の江戸川乱歩)が二号〜四号の編集にかかわる。

・ 「追跡『東京パック』」高島真著では、下田氏はかねてから社会風刺や政治批判の漫画に興味を抱き、有楽社から「東京パック」の権利を譲り受けたのではないかと推測している。しかし「有楽社」の変遷を見ると、大正2年には印刷会社「博秀社」と同住所の「合資会社有楽社」になり大正4年末まで「東京パック」を発行する。以後その名は使用されず、かろうじて同住所から大正5年に「滑稽文庫 第三編」が発行され編集人:合資会社有楽社編集局として記載されたのを最後に消える。おそらく債権者たちが資金を回収した時点で「東京パック」を終刊し「有楽社」の名も不要となったのだろう。この時期は他の漫画雑誌も低迷し、既に「東京パック」もブランドとして色褪せていたのも否めない、欲する者が居らずに権利はうやむやとなり、強いて言えば北沢楽天のものであるような状態になったのではないだろうか。

8月20日、長女の和子(かずこ)生まれる。

10月10日〜17日第四回漫画展覧会、白木屋にて。

9月『「層雲百号記念出版画集 街並木 萩原井泉水編」層雲社刊』へ在田稠:木版挿画3図。

10月『「少年 月世界探検号」時事新報社』、口絵:在田稠。

・千葉亀雄、柴田勝衛、読売新聞へ入社。

▽「時事漫画」135p5 所蔵:さいたま市立漫画会館      

大正9 (1919) 「東京パック」の編集へ。

・おそらく辞めた平井氏の後任で、前年年末から?

1月上旬 大阪三越にて半折漫画展覧会。

3月27日〜30日大阪にて第六回漫画祭。漫画祭自体は28日、その後京都などへ。

雑誌「日本一」4月号に「漫画今昔譚」寄稿(日本漫画史概論の先駆的なものであった)。

・稠は漫画に関する豊富な研究家で、海外漫画にも関心が深く、同年の「東京パック」11月号で海外漫画の紹介をしている。

『サンエス』2巻6号 —「故岩野泡鳴氏」— へ泡鳴氏の似顔絵。

7月31日〜8月3日越後赤倉温泉の故岡倉天心先生の別荘にて特別漫画祭、漫画祭は1日、3日朝にオール赤倉野球団と試合。

9月1日〜5日第五回漫画展覧会、白木屋五階にて。

・9月16日三田グラウンドにて漫画チームと文士チームの試合、稠は不参加。

12月24日 妹ミツエ、仙台の僧侶(栽松院)と結婚。

  

大正10(1920) 第六回漫画展覧会1月20日〜27日

三越呉服店にて。

・2月11日 時事新報付録の日曜画報「時事漫画」創刊(楽天主筆で新聞紙大色刷版)。

3月30日〜4月7日第七回漫画祭、東京〜名古屋〜松江にて漫画祭〜玉造〜美保ヶ関〜米子〜京都〜帰京。稠と小川治平は名古屋で帰る。

『「層雲百号記念出版画集」層雲社刊』に木版挿画3図。?上記、大正8年の物と重複

 5月 東京漫画会による東海道五十三次漫画旅行。

 日本橋から京都までを自動車で走破し、現代版の東海道五十三次を製作しようと言うイベント。

稠を含むメンバー18名が寄書きした肉筆の「東海道五十三次漫画絵巻」が製作され、上下巻セット150部が作られた。

・ この頃、東京パック社主催で、東京漫画会(もちろん稠も参加)による「漫画半折百幅会」という肉筆画の頒布会が日本各地で行われている。地方の金持ちを相手にした、東京パック社としては経営や資金繰りを楽にする、漫画家達には実入りの良い(ボロい)会だったようだ。しかし既に名を馳せていた楽天も参加している、彼などはこれで東京パックと漫画家の応援、そして更なる漫画の波及を願っていたに違いない。

△東海道漫画絵巻「小田原」 所蔵:さいたま市立漫画会館  △東海道漫画絵巻「品川」 所蔵:さいたま市立漫画会館

 

大正11(1922) 第七回漫画展覧会1月15日〜20日、三越呉服店四階にて。

・5月22日〜?日 別府にて第八回漫画祭。稠は不参加。

5月 前年の東海道五十三次漫画旅行を綴った『「東海道漫画紀行」東京漫画界著 朝香屋書店刊』(2円50銭)

5月『松山敏「若き日の影」金星堂刊』の装幀。

8月 仙台協賛会の招きにより、東京漫画会メンバーら松島金華山の旅へ。 

11月 次女の澄江(すみえ)生まれる。

12月『「魂の旅:詩集」著者在田稠 銀皿社刊』を出版。

銀皿第三創作集、松山敏、在田稠共編「小説 人生の憂鬱」銀皿社刊*「山間の花」大正11年6月』

『松山敏、在田稠共著「小説 奥深い道 虐げられし道」銀皿社刊、大正11年?』

『銀皿社編「現代名家傑作選集」金星堂刊、装幀、大正11年?』

・岡本一平と近藤浩ら、世界一周の旅へ(3/18〜7/19)

▽「時事漫画」133p3 所蔵:さいたま市立漫画会館      

 

大正12(1923) 第八回漫画展覧会1月23日〜28日

三越呉服店四階にて。

3月『泰西名作叢書1 エミール・ゾラ作 松山敏訳「女優ナナ」愛文閣刊』の装幀、口絵。

3月28日〜29日 第十回漫画祭、帝国ホテルにて漫画祭〜箱根で一泊。「東京漫画会」を解散し、「日本漫画会」を樹立。

集団行動による漫画の宣伝などの目途は成したので、以後は個々を中心に活動しようと言う趣旨。移行であるか、新しい団体か、メンバーの捉え方はまちまちであったようだ。

「東京パック」(六月)が中断し、九月の関東大震災によってそのまま終刊へ。楽天の「時事漫画」へ頻繁に登場。

7月14日〜20日 大阪丸善にて個展開催(昭和2、3年頃?の可能性あり)。

8月 「松島金華山漫画の旅」出版。

<関東大震災 9月1日>

 大震災直後に日本漫画会のメンバーらが東京の状況を描いたスケッチを集め、11月17日に大阪三越百貨店にて展覧会を開催。

 稠は家族そっちのけで、被災地のスケッチに回って家に居なかったと母が言っていた。(次女 澄江の談)

11月21日には大阪に避難していた金尾文淵堂を版元として『大震災画集』を出版。

『「震災画譜 画家の眼」黎明社刊』大正12/12、画家及び漫画家44名による絵と文。

8月の「京城日報」に、9月中頃に稠も参加する漫画団(ほぼ「日本漫画会」のメンバー)が京城(日本統治時代のソウル)を訪問する予定掲載も、中止の模様。1928年、1933年に同様のイベントが行われ、漫画の展覧会や即席の漫画制作を催されている(稠の参加は不明。)。

住所が大正15年の記録では、市外下渋谷向山1418となっている。震災の影響でこの時期に引っ越したと思われる。

           

大正13(1924) 稠とカルピス看板?

・ 「カルピス国際懸賞ポスター展」で黒人キャラクターの図柄が決まり、カルピスのポスターや看板などで全国に流布する。それに関して在田家には「あれは稠が描いたものだ」などの話が伝わっている。次女の澄江も「恵比寿の自宅あたりを親子で散歩していると、カルピスの大きな看板があり、父はそれを見つつ(感慨深い様子で)一服をよくしていた」「家にしばらくはカルピスが送られて来ていた」「カルピス柄の浴衣があった」などの記憶をもっている。しかしカルピスの図案は懸賞入賞者のものであり、その時の選者などでもなく、記録に名はない。推測するに、図柄は入選作と使用された物とで多少の違いがあり、稠はその際のブラッシュアップを任されたのではないだろうか?

 

大正14(1925) 三女の満智子(まちこ)生まれる。

 

「世界名詩選1〜20 松山敏訳 文英堂書店刊」の装幀。『世界名詩選3「バイロン詩集」松山敏訳』など。

・4月10日、小川治平死去。時事漫画(208号)に稠の追悼文。4月23日には山田みのる死去。

<治安維持法、普通選挙法>

 ▽「時事漫画」(呑気な農夫)159p12 所蔵:さいたま市立漫画会館 

大正15/昭和元年

(1926) 1月「時事漫画」に名が表記。

編集者として「稠・稲天・抜天・久夫」の名が巻頭に連記される(翌年3月頃まで)。

7月 柳瀬正夢、麻生豊、宍戸左行、下川凹天、村山知義らと「日本漫画連盟」を発足。

 その趣旨は、売品主義の俗悪化する漫画に対し、文明、人生の批評家たる漫画芸術(新芸術)の確立を目指そうと言うものであった。

二百人近い会員が集結したが、急激に拡大し消滅した為に参加メンバーの詳細は不明。

12月 漫連の機関誌「ユウモア」を創刊。

『尾関岩二「運命と人生」附幼き日のために(人生詩人叢書)緑蔭社刊』の装幀。

『三太郎「イカモノ」大阪屋号書店』の装幀。

『吾楽【創刊号】加納野梅/久佐太郎/森島直造/表:在田稠、大衆文藝研究会』。

・中西立頃死去。

<天皇崩御、昭和と改元>

 

昭和2 (1927) 「ユウモア」第2巻(昭和2年2月21日発行)

3月 日本漫画連盟による第一回展覧会が開催。

『「スター漫画漫談 : 日本欧米映画俳優似顔漫画集 在田稠 編」緑陰社刊』、 執筆は岡本一平、在田稠、ほか8名。

「ユウモア」第3巻(昭和2年4月1日発行)で自叙伝を執筆。別欄には同士から、稠の動作が極めて緩慢であるエピソードが語られておりパーキンソン病の兆候と思われる。この頃から執筆が減っていく。

稠は様々な病院を訪ねるが、悉く原因不明の症状だとしか診察されない。やっとある病院で、発見されて間もないパーキンソン病だと判明するが、もちろん当時は病理も明らかになっておらず、治療法や薬が無い難病であった。

日本漫画連盟が、メンバーらのプロレタリア美術運動にそそぐ力の比重が高く成るにつれ自然消滅。

9月『「シエクスピア詩集」尾關岩二訳 三水社刊』の装幀。

<金融恐慌>

昭和3 (1928) 1月『「岡本一平外九氏映画 漫画漫談」在田稠、清香社刊』

 ▽ポスター「DASPLAKAT」(印刷)詳細不明 所蔵:さいたま市立漫画会館 

7月下田憲一郎が「東京パック」を再刊、「時事新報」を辞し、その編集に加わる。

下田氏の頼みに応じたもので、この後8年間ほどは二人で編集を進めて行く。

この頃まで東京の恵比寿(渋谷町向山15番:向山1418)に親子5人で暮らしていたが、長女 和子をキクの母(つね)とその姉、弟(復造)のいる下関へ、次女 澄江をキクの兄の山根東蔵(養子入り)がいる大阪へ預け、三女 満智子だけを手元に。金銭的逼迫と余命を掛けて「東京パック」に臨む為だと思われる。これを機に引越し?「日本新聞年鑑」昭和6年版で住所が東京市外渋谷町金王36、柴田氏の住所は渋谷町金王37。

・ この頃の次女澄江の記憶「父はローラースケートが好きで、ローラースケート場をよく利用した、娘三人は見ていただけ。」「稠、和子、澄江で地下鉄に乗りに行った(恵比寿の辺りは電車の駅などが集まっていた)。」「恵比寿の宅には、岡本一平夫妻が来たことがある。ちなみに柴田勝衛の嫁さんは、派手な岡本かの子を嫌っていた。(やや問題発言ですが、女史を知ってる方なら笑止して頂けるエピソードだと思います。)」

時期は定かではないが、妹ミツエは稠に会いに度々東京へ来ていたらしい。

『「漫画双紙全5冊」磯部甲陽堂刊』、これは「頓智杢太郎:漫画双紙」を含む、山田みのる、前川千帆、服部亮英らの漫画双紙シリーズを合わせた物。

『「漫画双紙 漫画展覧会」漫画会同人著 磯部甲陽堂刊』東京漫画会メンバーの作品を寄せた物。

 

昭和4 (1929) *「東京パック」売れ行き好調、1月から30銭の定価を20銭に値下げ。

「東京パック」8月1日号の表紙8月20日を担当。

12月25日『「現代短編小説の粋 短編小説傑作集」録文社刊 』に短編小説「奥深い道」掲載。

・主人公は人生を憂いるような重病を抱えながらも邁進を決する、と言う内容。

『帝国生命保険株式会社編「生命保険統計図表」帝国生命保険株式会社刊』に生命保險の木(原畫 在田稠氏)。

・北沢楽天、フランス政府の斡旋にてパリで個展の為洋行(2/28〜)。

・岡本一平、12月から一家で3年間ヨーロッパへ。 

昭和5 (1928) *「東京パック」5月号、12月号が発売禁止になり、苦境へ。

 

邦枝完二「毒婦歴」日東堂(大正5年)の装幀。  

 

昭和6 (1931) <満州事変>

*「東京パック」11月号発禁。

・時事新報社も経営不振で、楽天の「時事漫画」は7月から「漫画と読物」と改題し内容一新。

 

昭和7 (1932) *「東京パック」また度々の発禁と改変。

「東京パック」2月号、11月号発禁。この頃より寄稿者たちも検挙されていく。この月は他誌もぞくぞくと発禁。

4月号より、定価20銭27ページから15銭19ページに値下げし、当初は順調だったが物価の高騰などにより、10月号からサイズをB4版へ大型化、全巻オフセット印刷、15ページ、定価20銭に改訂。

パックは資金の安定化を目指し「漫画フアン聯盟」(半年か一年の誌代前納で漫画内報配布)の会員を募り続けるが、目標の人数に達せず、活動がないままに昭和12年3月号あたりで、うやむやに。

『 旅行春秋 【創刊号】杉山勝三郎・編/在田稠/表紙:森山三郎、旅行春秋社』。

 ▽「時事漫画」162p14 所蔵:さいたま市立漫画会館 

*楽天が7月に時事新報社を退社、10月「漫画と読物(時事漫画)」終刊。

 

<五・一五事件>

 

昭和8 (1933) <国際連盟脱退>

飲み仲間であった生方俊郎が、この頃久しぶりに会うと稠の歩みが大変遅いので実は心配していたと語っている。

昭和9 (1934) *「東京パック」4月号から23ページに。

・ 7月号、9月号の発行確認出来ず(『第四次「東京パック」要覧』美術同人社刊より)、原因は発禁、押収、起訴? 

・ 「追跡『東京パック』」には、この頃に下田氏から寄稿者の藁他三次郎への借金返済出来ない窮状の手紙、大田耕士氏による寄稿者へ満足に原稿料を払ってない談など、厳しい運営状況が記されている。

 

昭和10(1935) この頃から奇病(パーキンソン病)が顕著に発症するも、編集に従事。

・ その症状は、手が震えて、食べ物を口に運ぶ事もできない、時には大きく、収まると小さな震えに戻ると言う具合であった。

 

*1月号の発行確認出来ず(『第四次「東京パック」要覧』美術同人社刊より)。 

・ この原因も発禁、押収、起訴?

・ この頃仕事を手伝っていた佐藤隆二氏によると、発行部数は少ないときは5千部、多いと3万部。「追跡『東京パック』」より

           

自宅の二階を学生などの下宿にして、生活費の足しに。

・千葉亀雄、8月に倒れ10月4日に死去。

昭和11(1936) <二・二六事件>

 

*「東京パック」次々と未刊?

・ 3月号、5月号、8月号、10月号、11月号、12月号の発行確認出来ず(『第四次「東京パック」要覧』美術同人社刊より)。上記の状況と同様か?

 

6月が絵を載せた最後。10月頃には編集の仕事から離れていたと思われる。

冬ごろから東北帝大付属病院(山川内科)へ入院。(地元仙台のミツエ宅から通院?)

東北帝大の医学部にいい先生がいるというので、嫁いだ妹ミツエのもとに二、三ヶ月滞在し治療を受ける。治療後はだいぶ治まり帰るが、もう絵は描けない状態だった。と「追跡『東京パック』」ではミツエの親族から取材しているが、それは昭和15年と記されており記憶違いか、帝大で二度にわたり治療を受けたかは不明。

昭和12(1937)  入院中の稠のもとへ1月11日付けで大日本雄辯會講談社社長野間清治より、見舞い状が届いている。

 

*「東京パック」2月号の発行確認出来ず。

・ 3月号は7ページ(従来の三分の一)で発行。4月〜13年3月(1937年〜1938年)一年間の休刊。

 

年末にキクと満智子はキクの兄である東蔵の招きで大阪へ、転居先が決まり稠が呼ばれる。

・次女の澄江は歌島橋(大阪)の日東アルミに勤めていた東蔵の元に預けられ、彼の孫娘らと野里で暮らしており、稠らはやや離れた佃田町の一戸建て平屋に居住。キクは山根がその辺りに持っていた借家の家守をまかされて家賃を集めていた。(次女澄江の談)

・ 稠は若い時から、冷水摩擦をしていたらしい。具合が悪く成っても、よく澄江が体をタオルでこすってあげていた。

<日中戦争、起こる>

 

昭和13(1938) * 「東京パック」復刊。

・ 定価20銭15ページとなり、4、5、8、11月号を発行、しかし中身の再掲が多数。内容は軍国調をよそおった絵や漫文で、おもに慰安袋用か?

 

<国家総動員法、施行>

 

昭和14(1939) *「東京パック」1月と4月しか発行確認出来ず。

 

<国民徴用令、公布><第二次世界大戦、勃発>

 

昭和15(1940) 東北帝大の医学部で治療?

上記したように帝大で二度にわたり治療を受けたかは不明。

パーキンソン病は進行していたが、不十しながらも一人で出歩いていた。

*「東京パック」5月と8月しか発行確認出来ず。

           

<日独伊三国同盟、結成>

 

昭和16(1941) 正月に酒を飲みすぎた事から体調が悪化。

大阪の宅(大阪市西淀川区佃田町1215番地)にて、1月26日午後4時に他界。享年55歳。

・次女の澄江が野里で危篤の連絡を受けてから、二日後ぐらいに亡くなったらしい。

長女の和子はまだ下関にて、大阪に駆けつけ、その後大阪で暮らし始める。

*「東京パック」この年に3月号だけを発行して、第四次「東京パック」終了(下田氏は昭和18年に突然他界、カニを食しての中毒)

 <太平洋戦争、勃発12月8日>

 

・詳細に記していないが、漫画はパーキンソン病が発症するまで絶えず各誌に掲載していた。書籍装丁に関しても明確に確認出来る物だけを記載したが、実際は更に多数存在。

・ポスターが数点存在するが詳細不明。「東京パック」の東京パック社による漫画広告図案制作なる業の仕事かも知れない。 

・ 雑誌「新青年」博文館刊への寄稿も詳細が分からない。

・上記以外に「読売新聞」に勤めていた時期があるとの話があるが不明。

これを記載するにあたり、「さいたま市立漫画会館」を訪問させて頂いたおり、館長及び学芸員の方が丁寧に対応して下さった事が大変助かりました。所蔵する祖父在田稠の原画などをわざわざ揃え閲覧させてくれるばかりか、関する文献も蔵書の中から抜粋し、まとめた写しを資料として渡して頂いたのです。只々深く感謝しております。申し訳ないのはその時に必要を感じず、出典元の書籍名などを聞き逃してしまい、ここで文献の正確な情報を表記出来ない状態になってしまいました。以下に参考文献を記載しますが、頂いた資料からも多くを参考にさせて頂いています。

 

参考文献

 

生田誠(2013)「明治の京都 てのひら逍遥:便利堂美術絵はがきことはじめ」便利堂.

 

ウィキペディア フリー百科事典(2015)「時事新報」,<http://ja.wikipedia.org/wiki/時事新報>(参照2015−2−3).

 

落合道人(2012)「膨大な作品が欠落したままの漫画史。気になるエトセトラ」,<http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-08-18>(参照2015−2−3).

 

「芥川龍之介「我鬼窟日錄」 附やぶちゃんマニアック注釈」,<http://homepage2.nifty.com/onibi/gakikutu.html>(参照2015−2−3).

 

KANDAアーカイブ神田学会2002−2015)「神田資料室 神田貼雑独案内1」,<http://www.kandagakkai.org/archives/article.php?id=000214&theme=029&limit=20&start=0&sort=k>(参照2015−2−3).

 

北沢楽天(2000)「復刻 東京パック 第8巻」龍渓書舎.

 

「近代日本版画家名覧 p64」,<http://www.hanga-do.com/img/Hangadomeiran101.pdf>(参照2015−2−3).

 

高 晟埈「在朝鮮日本人漫画家の活動について―岩本正二を中心に」,<http://kinbi.pref.niigata.lg.jp/pdf/kenkyu/2014/14ko_2.pdf>(参照2015−2−3).

 

国立国会図書館サーチ(2012)「少年倶樂部 2(2) 大日本雄弁会講談社,大日本雄弁会」,<http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000154084-00>(参照2015−2−3).

 

国立国会図書館サーチ(2012)「少年倶樂部 2(3) 大日本雄弁会講談社,大日本雄弁会」,<http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000092785-00>(参照2015−2−3).

 

国立国会図書館サーチ(2012)「少年倶樂部 5(2) 大日本雄弁会講談社,大日本雄弁会」,<http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000127669-00>(参照2015−2−3).

 

国立国会図書館サーチ(2012)「少年倶樂部 6(6) 大日本雄弁会講談社,大日本雄弁会」,<http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000192839-00>(参照2015−2−3).

 

国立国会図書館サーチ(2012)「少年倶樂部 10(8) 大日本雄弁会講談社,大日本雄弁会」,<http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000148563-00>(参照2015−2−3).

 

国立国会図書館デジタルコレクション(2011)「東海道漫画紀行」,<http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/964445>(参照2015−2−3).

 

「さいたま市立漫画会館」,<http://www.city.saitama.jp/004/005/002/003/001/>(参照2015−2−3).

 

「スター漫画漫談 : 日本欧米映画俳優似顔漫画集 在田稠 編」,<http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/737251.html>(参照2015−2−3).

 

高島真(2001)「追跡『東京パック』:下田憲一郎と風刺漫画の時代」無明舎.

 

徳田秋聲記念館(2015)「館報『夢香山』創刊号」,<http://www.kanazawa-museum.jp/shusei/mukouyama/pdf/kanpo_01.pdf>(参照2015−2−3).

 

「白馬会研究所について」,<http://www4.famille.ne.jp/~okazaki/hakubakai.htm>(参照2015−2−3).

 

「古本中毒症患者の身辺雑記 2009年09月03日 田山花袋『妻』(大正4年)」,<http://blog.livedoor.jp/hisako9618/archives/51692424.html>(参照2015−2−3).

 

「文藝通信総目次・執筆者索引: 昭和8年10月~昭和12年3月 小田切進 編集」,<https://books.google.co.jp/books?id=0HbZhycDsuoC&pg=PA218&lpg=PA218&dq#v=onepage&q&f=false>(参照2015−2−3).

 

「平成21・22年度 渋谷区立松濤美術館年報 第15号 p64」,<http://www.shoto-museum.jp/11_business02/0204_Shoto_15.pdf>(参照2015−2−3).

 

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