祖父、
在田稠   
             (ありた しげし)
    

△「時事漫画」132p3 所蔵:さいたま市立漫画会館  

▽画帳より、「菊花大会」 所蔵:さいたま市立漫画会館 

在田稠は明治中期から大正、昭和初期を生きた漫画家。
そして私の母方の祖父である。            

   

【在田稠(ありたしげし) 明治20年(1887)—昭和16年(1941)】

宮城県遠田郡出身、旧制中学卒業後に上京し、白馬会洋画研究所をへて東京美術学校洋画科に学ぶ。

風刺漫画雑誌「東京パック」(第一次)の編集に携わったのをきっかけに、その出版元「有楽社」、その後「時事新報社」に入社する。

その間に各誌へ執筆、漫画を描くようになり、書籍や楽譜の表紙・装幀なども多く手掛け、ポスター類も作成した。

東京の漫画記者を中心とする「東京漫画会」に名を連ね、また「日本漫画連盟」も発足させ、戦前の日本近代漫画の一翼を担う。

第二次〜三次にも関わった「東京パック」が新体制で第四次の創刊をすると、主宰者の一人として請われ、「時事新報社」を辞して参加するが、48歳頃から手が震えるなどの奇病(パーキンソン病)を発症し、離職。東北帝大にて治療をするも完治せず、家族の移り住んでいた大阪にて昭和21年(1941)に没する。

▽ポスター「JUNG BORN」(印刷)詳細不明 所蔵:さいたま市立漫画会館  

*上記以外に彼は自身の経歴において「大正二年 南洋の無人島探検漂流して帰る」なる項を述べるのが常であった。よほど印象深い経験だったと思われる。

 

作品のほとんどは「東京パック」「楽天パック」「時事漫画」「新潮」「文章倶楽部」「少年倶楽部」「東海道漫画紀行」などの寄稿や共著、書籍装幀などのデザインであるが、個人での著作本は「頓智杢太郎:漫画双紙」磯部甲陽堂刊、「魂の旅:詩集」銀皿社刊がある。

 

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    *        *        *

 私が生まれた時とっくに他界していて、思い出は一切無く、恥ずかしながら、祖父の姿が見え出したのは、最近調べ出してからである。

その生涯の年表を以下に記すが、とにかく情報を盛り込んだ私的な覚え書きに近い。

・資料は相違と欠落が多く、大いに推測を加えつじつまを合わせ、関係する周辺事情、大きな社会情勢も記した。

  

「年譜」

  

明治20(1887) 8月4日 稠、在田亮(ありたまこと)の長男として誕生。

・ 生地は宮城県遠田群不動堂村四十六番地:現、小牛田(こごた)町の不動堂地区。

 

明治27(1894) 父が校長であった不動堂小学校に入学、尋常科を過ごす(尋常高等小学校)。

この頃に母と死別。

▽「海近く」/水彩画 詳細不明 所蔵:さいたま市立漫画会館      

 

明治28(1895) 父が後妻のフミをめとる。

<日清講和条約>

 

明治29(1896) 稠の妹が生まれる。

 

明治32(1899) 父、病死。

           

明治33(1900) <清国義和団事件>

明治34(1900) 小学校卒業。

           本来ならこのまま中学に進級するのだろうが、それは翌年となる。

           中学に通うのは財のある者がほとんどで、祖父の家計は父の死により、かなり貧窮していた為と思われる。

▽中学時代のスケッチ/鉛筆、水彩 A5              

明治35(1902) 4月仙台第一中学校(現在の仙台第一高等学校)に入学。

在学中から彼は絵の才能が光っていた。            

<日英同盟>

 

明治37(1904) <対露宣戦布告>

 

明治38(1905) *4月、画期的な漫画雑誌「東京パック」が北沢楽天の編集で、有楽社から刊行。

・ 「東京パック」は日本初の全カラー漫画雑誌。B4変形判、全12ページカラー漫画、説明文などに日本語・英語・中国(支那)語が併記されると言う先進的編集で創刊されると、たちまち大人気となった。この時期の刊行は第一次「東京パック」と呼ばれる。

・ 北沢楽天(きたざわらくてん:明9—昭30)、日本初の職業漫画家、また日本近代漫画の祖ともされている。

・ 「有楽社」は中村弥二郎(明5−昭19)が明治36年に設立した出版社。

 

<日本海海戦><日露講和条約>

                                              

明治40(1907) 3月、中学校卒業。

・ 学籍簿は明治35〜40年で中学の修学年限5年とも符合する。畧歴や履歴書では相違しており、8年在籍していた事になっている。この意図は何か?当時は主流の数え年に対し満年齢使用の発布、また学生制度もコースが幾つも存在した上に度重なる改変がおこなわれた。おそらくそんな煩雑さに乗じるかたちで、幾つかの都合の悪い事実を、新たなストーリーで覆ったと考えられる。(その推測はいずれも後に関する事なので、それらの下りにて記す。)

 

明治42(1909) 上京、白馬会本郷研究所(白馬会洋画研究所)に入る(2ヶ年修業)。

 

明治43(1910) <大逆事件、起こる>

・ 天皇暗殺を企てたとして、幸徳秋水ら社会主義者が大量に検挙され、翌年12名が絞首刑に。この事件で、強まっていた言論思想(天皇に危害を加える様な)取り締まりが一段と進む。

 

明治44(1911) 東京美術学校洋画科(現 東京芸術大学 美術学部の前身)に入学。

・ この年、白馬会洋画研究所は解散しており、中心であった黒田清輝、久米桂一郎は東京美術学校の教員もしていた。何らかの便宜が図られたと想像出来る。

 

この頃から第一次「東京パック」の編集に関わりはじめる?

・ 後に、楽天が「有楽社」を去る際、自分のスタッフであった小川治平、森田太三郎、在田稠を新発足する第二次「東京パック」に回した、との旨が幾つかの資料に見られる。ところが稠の「有楽社」入社は大正3年。これは美術学校に通いながら、「有楽社」でアルバイト的な働き方をしていた事を現しているのだろう。漫画執筆陣も美術の学生が多く描いている。

 

*「東京パック」は社会主義よりの編集を改め、反対に批判する論調に移って行く時期。

・「大逆事件」を受けたものだが、それは日本のジャーナリズム全体の傾向であった。

  

<辛亥革命、清滅亡>

 

明治45/大正元年

(1912) *楽天の「有楽社」、退社により第一次「東京パック」(五月一日号)終わる。

・ その理由は経営者の中村弥次郎が放漫経営で多額の借財をかかえ、「東京パック」も担保にした事で楽天と仲たがいしたと言われている。その一方で、誌が売れ行き不振に陥っていたとか、楽天が法外な報酬を取り「有楽社」にあまり利益が無かったなどの話がある。確かに経営は放漫、楽天の報酬も高額であったらしい、それらが絡まった顛末なのだろう。

▽「時事漫画」155p9 所蔵:さいたま市立漫画会館      

* 楽天、「楽天パック」「婦人パック」(楽天社)を発刊する。

・ 6月に「楽天パック」、これは社会風刺を中心とする漫画雑誌で、続いて7月に出した「家庭パック」は婦人・子供向けのグラフ雑誌のような物であった。しかし振るわず「家庭パック」は大正2年、「楽天パック」は大正3年に終刊する。

 

* 「有楽社」から桑田春風の編集による第二次「東京パック」(六月一日号)創刊。(五月十日号、五月二十日号は休刊)

 

「新潮」新潮社刊(5月)に執筆、その後に表紙を描く。

・ 国書刊行会発行の「漫画雑誌博物館」が出典と思われる稠の略歴に、『大正初年、平福百穂の紹介で「新潮」の表紙を描く。』と記されている。その仕事は資料不足で確認出来ないが、5月の執筆誌は存在する。6月刊の第二次「東京パック」から参加する平福百穂とは、少なくとも前月には面識があったはずで、しばし「東京パック」の仕事が減ってしまった稠へ、平福が「新潮」の仕事を紹介したのは自然な流れと思われる。まずは前記の執筆などをし、そして表紙を任されたのだろう。ちなみに大正への改元は7月30日である。

・ 5月の執筆が漫画であるかは不明だが、稠が任されるからには絵入りにほぼ間違いない。当時の出版では写真の印刷画像が悪く、それを補う為に挿絵や似顔絵がよく使われ、画家達の余技的収入などになっていた。美術の学生などに執筆させていた「東京パック」同様、他社もそうであったと思われる。

 

徳田秋聲の「足迹」「塵」新潮社刊の装幀をする(明治45年)

・ 大正2年の「爛」も稠が装幀したと思われるが、実は上記も含め署名(サイン)がなく不確定だ。しかし以後、新潮社から出された徳田秋聲著作の多くの装幀に、稠の署名が入りデザインも類似している。「哀史」(大正3年)、「あらくれ」(大正4年)、「奔流」(大正5年)「小説の作り方」(大正7年)などである。おそらく初期の仕事では署名まで考えが及ばなかったのだ。

 

<天皇崩御、大正と改元><中華民国、成る>

▽「へちまの下で三味線をひいている女性」/水彩 詳細不明 所蔵:さいたま市立漫画会館 

大正2 (1913) 南洋の無人島探検漂流して帰る。(履歴書及び畧歴の表記)

・ この件に関して詳しい文章などは見当たらない。のちに出版する「魂の旅:詩集」にも、嵐に遭遇し漂流する描写が一編の中にわずかにあるだけである。(「文章倶楽部」に経験談が記されているようだが未見。)

 肉親の間に伝わる話を総合すると、探検の顛末はこんな様子だったようだ。『稠はゴーギャンに憧れ、南洋の(タヒチのような)無人島を目指して、密航するような形で船(貨物船?)に乗り込む。しかし早々に船は嵐に遭うと漂流し、玄界灘をへて鹿児島に流れ着く。無一文であった稠は歩いて東京まで帰ったらしい。』

・ 突如このような旅(探検)に出発するからには、やはり「東京パック」の編集はアルバイトであったと思われる。

 

この年の「新潮」にも稠の執筆がある。

俳句雑誌「層雲」第三巻第7号 層雲社刊に木版画挿絵、10月。

  

<対独宣戦布告、第一次世界大戦>

大正3 (1914) 「恋百題」緑川春作 新潮社刊の装幀をする。

             木版挿画 二葉/竹久夢二

 

10月、「有楽社」に入り絵画雑誌編集。(履歴書及び畧歴の表記)

・ おそらく「東京パック」中心であったと思われるが、この表現はバイト時と違い、他の紙面も携わったと言う事だろう。

・ ここで正式に「有楽社」に入社するが、通っていた東京美術学校はどうなったのだろう。履歴書及び畧歴で、東京美術学校に四ヶ年修業(1911−14?)と記しているが、現在の東京芸術大学美術学部の学籍簿には見当たらない(「追跡『東京パック』」調べ)。だがまるっきり詐称したとは考えにくい。学校の修業年限は5年なので、四ヶ年修業は卒業をしていない事を表現しており、正しい記載は中退だ。しかし大正2年などは殆ど登校していないと思われ、籍はあっても実際は2年分ほどしか学科を習得しておらず、そんな状態で辞めたのではないだろうか(または自然消滅)。つまり正式には除籍で、その表現を避けたのだろう。

 ▽「時事漫画」219p4 所蔵:さいたま市立漫画会館 

*11月「楽天パック」終刊。

・ この頃、山田実、服部亮英、在田稠、下川凹天らに執筆を任せ、楽天は実質的に離れて再び「時事新報」での漫画へ勢力を注いでいた。

 

月刊少年雑誌の「少年倶楽部」大日本雄弁会(講談社)刊に執筆。

・ 創刊号(大正3年11月)は「山家の小國民(口絵)」、その後も「愛の若武者:漫書蹠物語」などを執筆。

 

<日華条約、調印>

 

大正4 (1915) 4月、「有楽社」を辞す。

5月、「東京時事新報社」意匠部(後に絵画部も兼ねる)に入る。

・ わずか半年の早い転身。楽天が「時事新報」にウエイトを置き始めたのは大きいだろうが、「東京パック」の実情は不本意な好ましい状態ではなかったのかも知らない。まもなく休刊する「東京パック」が、それを語っているようにも思えてしまう。

・ 稠に入社を計らったのは、「時事新報」社会部に勤めていた柴田勝衛(しばたかつえ:1888−1971)で大正8年には「読売新聞」へ転じるが、稠とは同郷、そして仙台一中の良き先輩として、以後も親しく交流が続く人物である。如何に二人が東京で出会ったかは不明だが、出版界、芸術家、文人達はかなり交流しており、顔を会わす機会は無数にあったと思われる。また「日本新聞年鑑」昭和6年版で柴田氏の住所は東京市外渋谷町金王37、稠は渋谷町金王36であり、驚く程近所に住んでいた、おそらく稠があえて近所に越したのだろう。実際は稠よりも柴田氏はひとつ年下であるが、彼らの学生時代は修学や進級が最も多様化していて、先輩後輩が逆転するのは何らおかしくはない。

・ 気になるのは、柴田氏が一中から秋田県大館中学へと移っており、二人がどれほど同時期に在校していたか定かでない事である。完全にすれ違い、単に同窓なだけである可能性もある。それを踏まえてひとつ仮説を立てると、稠が履歴書や畧歴に記した年代相違の謎がかなり解決する。稠が柴田氏に「時事新報」を紹介してもらうにあたり、実情は中学で殆ど接点が無いのに、二人は少しでも体裁を良くしようとそれなりに面識があった事にしたのではないだろうか?それが柴田氏の経歴に合わせて、稠の生年月日や在学期間をずらす事だったのだ。上記のように学生制度は煩雑化しており、もし元々から稠に父の死亡による困窮で、中学へ上がるに際しブランクが在ったとしたら(それらしき形跡がある)、それも利用する形で、それらしい新たな進学ストーリーを作ったのである。

 

新潮社刊の縮刷傑作文庫の装幀をする。

・ 「第一編 国木田独歩『運命』」「第二編 田山花袋『縁』」「第三編 田山花袋『妻』」は大正4年、「第四編 田山花袋『生』」は大正5年刊。また新潮社から発行された田山花袋の本の多くを稠が装幀している、「時は過ぎゆく」(大正6年)など。 

            

*6月17日、東京の新聞漫画家(漫画記者)を中心に、「東京漫画会」発足。

・ 発足時のメンバー詳細は不明だが、大正10年の東海道五十三次漫画旅行に参加したのは、岡本一平、清水對岳坊、代田収一、池部鈞、下川凹天、小川治平、在田稠、森島直三、中西立頃、前川千帆、幸内純一、宍戸左行、山田みのる、服部亮英、近藤浩一路、細木原青起、池田永治、水島爾保布。尚、結成に際し北沢楽天と平福百穂が協力している。同年に第1回漫画祭を開催、(以後、大正12年の解散まで10回開催される)。

 

*四年間続いていた第二次「東京パック」が、この年の末で休刊。

・ 稠がこの時期の紙面へ編集以外に、漫画を描いていたかは資料不足で不明。

 

大正5 (1916) 新潮社より創刊された「文章倶楽部」の表紙や漫画を描く。

・ 漫画は「文壇漫画」「漫画紀行」、他に挿絵、応募漫画の選評などをする。(大正12年まで?)。

 

「文壇失敗談」文壇樂屋雀編著 大日本新聞學會出版部発行の装幀。

この頃、柴田氏宅で、お手伝いをしていたキクを見初め、結婚。(次女、澄江の談)

「頓智杢太郎:漫画双紙」磯部甲陽堂刊            

           

大正6 (1917) <ロシアで社会主義革命>

 

大正7 (1918) <シベリア出兵><第一次世界大戦、休戦>

 

大正8 (1919) 「頓智杢太郎:漫画双紙」を磯部甲陽堂より出版。

 

邦枝完二作歌、中山晋平作曲「旅は遥かよ」新作小唄第三篇 山野楽器店発行に木版装丁。

 

長女の和子(かずこ)生まれる。

 

十日会にて。

・ 芥川龍之介の日記(日録)の大正8年6月10日に次の様な記載がある「—それから十日會へ行く。會するもの岩野泡鳴、大野隆徳、岡落葉、在田稠、大須賀乙字、菊池寛、江口渙、瀧井折柴等。外に岩野夫人等の女性四五人あり。遲れ馳せに有島生馬、三島章道を伴ひ來る。」

・ 「十日会(會)」とは、当時大久保あたりに住んでいた作家岩野泡鳴宅を会場に、蒲原有明・戸川秋骨・正宗得三郎等の文人が始めた集まり。やがて場所を万世橋の西洋料理店「みかど(ミカド)」へ移す。それが大正5・6年から12年の大震災までの時期で、会費は1円ないし1円50銭。この頃に出入りしていたのが、菊池寛・久米正雄・田中純・芥川龍之介・徳田秋声・齋藤茂吉・広津和郎らで、主に若手の文学者や女流作家(画家や歌人が多かった)・作家志望の青年などが参加していた。 参考文献:ホームページ KANDAアーカイブ>神田資料室

 

下田憲一郎によって復刊した第三次「東京パック」へ漫画執筆。

・ 下田憲一郎(しもだけんいちろう:明22−昭18)は秋田県出身のジャーナリストであったが、有楽社から「東京パック」発行の権利を譲り受けると東京パック社を設立、第三次「東京パック」(八月)を復刊、編集をする(サイズは小さくA4変型になり月刊)。

・ 「追跡『東京パック』」高島真著では、かねてから社会風刺や政治批判の漫画に興味を抱き「東京パック」の再刊を画策していた下田氏は、第二次で執筆していた平福百穂と知り合い、様々な教えを乞うたのではないかと、推測している。

▽「時事漫画」135p5 所蔵:さいたま市立漫画会館      

・ 平井太郎(後の江戸川乱歩)が二号〜四号の編集にかかわる。「追跡『東京パック』」より。

・ 稠の編集参加は大正9年頃から?(資料不足)

           

大正9 (1919) 雑誌「日本一」4月号に「漫画今昔譚」寄稿。

・日本漫画史概論の先駆的なものであった。

稠は漫画に関する豊富な研究家で、海外漫画にも関心が深く、同年の「東京パック」11月号で海外漫画の紹介をしている。

  

大正10(1920) *2月、時事新報付録の日曜画報「時事漫画」創刊。

・楽天主筆で新聞紙大色刷版。

 

「層雲百号記念出版画集」層雲社刊に木版挿画3図。

 

「東海道五十三次漫画絵巻」制作。

・ 東京漫画会による東海道五十三次漫画旅行(5月出発、自動車で)にて、稠を含むメンバー18名が寄書きした肉筆の絵巻。上下巻セット150部が作られた。

・ この頃、東京パック社主催で、東京漫画会(もちろん稠も参加)による「漫画半折百幅会」という肉筆画の頒布会が日本各地で行われている。地方の金持ちを相手にした、東京パック社としては経営や資金繰りを楽にする、漫画家達には実入りの良い(ボロい)会だったようだ。しかし既に名を馳せていた楽天も参加している、彼などはこれで東京パックと漫画家の応援、そして更なる漫画の波及を願っていたに違いない。

△東海道漫画絵巻「小田原」 所蔵:さいたま市立漫画会館  △東海道漫画絵巻「品川」 所蔵:さいたま市立漫画会館

 

大正11(1922) 五月、「東海道漫画紀行」東京漫画界著 朝香屋書店刊

・前年の東海道五十三次漫画旅行を綴った紀行文で、絵巻と対する形で各地をメンバーが執筆している。(2円50銭)

次女の澄江(すみえ)生まれる。

 

「魂の旅:詩集」を出版(銀皿社)

▽「時事漫画」133p3 所蔵:さいたま市立漫画会館      

 

大正12(1923) 第三次「東京パック」(六月)が中断、楽天の「時事漫画」へ頻繁に登場。

・ この「東京パック」の中断は九月の関東大震災によって、そのまま三次の終了となり、昭和3年(1928)に新体制で第四次「東京パック」が発行される。

・「追跡『東京パック』」で、この中断は「東京パック」が変化していく大衆の気持ちと社会の動きに追い付けなくなり、下田氏が次の飛躍の為にしばらく思案をしたと推測している。

  

大阪丸善にて個展開催(7月14日〜20日)。

・昭和2、3年(1927〜1928)頃?の可能性あり。

 

<関東大震災>

 

九月中頃、稠も参加する漫画団が京城(日本統治時代のソウル)を訪問。

・ ほぼ「東京漫画会」のメンバーによるもので、漫画の展覧会や即席の漫画制作を催した。1928年、1933年も同様のイベントが行われているが、その時の稠の参加は不明。またこの時期、9月1日の大震災で東京は混乱していたはずだが、8月の「京城日報」には待望するような漫画団入城の予定が書かれており、中止や延期は困難だったのだろう。

 

「東京漫画会」を解散し、「日本漫画会」を樹立。

・ 会長格の岡本一平、曰く「これから更に型をやぶって、漫画会員は個々に特性を深めて行く必要がある。団体行動はこれで凡て目的を達した」

           

大正13(1924) 稠とカルピス看板?

・ 「カルピス国際懸賞ポスター展」で黒人キャラクターの図柄が決まり、カルピスのポスターや看板などで全国に流布する。それに関して在田家には「あれは稠が描いたものだ」などの話が伝わっている。次女の澄江も「恵比寿の自宅あたりを親子で散歩していると、カルピスの大きな看板があり、父はそれを見つつ(感慨深い様子で)一服をよくしていた」「家にしばらくはカルピスが送られて来ていた」などの記憶をもっている。しかしカルピスの図案は懸賞入賞者のものであり、その時の選者などでもなく、記録に名はない。推測するに、図柄は入選作と使用された物とで多少の違いがあり、稠はその際のブラッシュアップを任されたのではないだろうか?

 

大正14(1925) 三女の満智子(まちこ)生まれる。

 

<治安維持法、普通選挙法>

 ▽「時事漫画」(呑気な農夫)159p12 所蔵:さいたま市立漫画会館 

大正15/昭和元年

(1926) 柳瀬正夢、麻生豊、宍戸左行、下川凹天、村山知義らと「日本漫画聯盟」を発足。

・ 7月発足。その趣旨は、売品主義の俗悪化する漫画に対し、文明、人生の批評家たる漫画芸術(新芸術)の確立を目指そうと言うものであった。

・ 「漫連」は二百人近い会員が集結し、機関雑誌「ユウモア」を創刊、昭和2年3月に第一回展覧会が開かれた。しかし漫画家たち(そもそもメンバーはアーティスト的色合いが強かった)のプロレタリア美術運動にそそぐ力の比重が高く成るにつれ、三年目ごろから「ユウモア」も発刊できず、自然消滅。

 

穂積稲天、長崎抜天、河盛久夫らと「時事漫画」の編集者に(漫画執筆も)。

 

<天皇崩御、昭和と改元>

 

昭和2 (1927) 「スター漫画漫談 : 日本欧米映画俳優似顔漫画集 在田稠 編」緑陰社刊

・ 執筆は岡本一平、在田稠、ほか8名の漫画家。

 

<金融恐慌>

昭和3 (1928) ?不明な「時事新報」時代の仕事。

・ 稠は「時事新報」在社中に楽譜(本)も多く装幀している。その年代や詳細は不明だが、畧歴の記載は『白眉社の楽譜装幀及中山晋平氏依嘱により同氏小形楽譜邦枝氏「旅は遥かよ」長田氏「海の唄」及「カチューシャの唄」等の装幀をなす』である。/邦枝完二作歌、中山晋平作曲「旅は遥かよ」新作小唄第三篇 山野楽器店発行に木版装丁、1919年。これは前記済み。

・ また雑誌「新青年」博文館刊への寄稿も詳細が分からない。

 ▽ポスター「DASPLAKAT」(印刷)詳細不明 所蔵:さいたま市立漫画会館 

・ポスターも数点存在するが詳細不明。

第四次「東京パック」の再刊(7月)、「時事新報」を辞して、その編集に加わる。

・退社の日付は『追跡「東京パック」』による。履歴書では昭和2年7月になっているが、畧歴には13年間在社したとしており、そうすると昭和3年が有力。

・下田氏の頼みに応じたもので、この後8年間ほどは二人で編集を進めて行く。

この頃まで東京の恵比寿に親子5人で暮らしていた。

・ この頃と思われる次女澄江の記憶「父はローラースケートが好きで、ローラースケート場をよく利用した、娘三人は見ていただけ。」「稠、和子、澄江で地下鉄に乗りに行った(恵比寿の辺りは電車の駅などが集まっていた)。」「恵比寿の宅には、岡本一平夫妻が来たことがある。ちなみに柴田勝衛の嫁さんは、派手な岡本かの子を嫌っていた。(やや問題発言ですが、女史を知ってる方なら笑止して頂けるエピソードだと思います。)」

・ この後に三女 満智子は手元に置き、長女 和子をキクの母とその姉、弟のいる下関へ、次女 澄江をキクの兄の山根(養子入り)がいる大阪(野里町?)へ預ける。

 

昭和4 (1929) *「東京パック」売れ行き好調、1月から30銭の定価を20銭に値下げ。

 

昭和5 (1928) *「東京パック」5月号、12月号が発売禁止になり、苦境へ。

 

邦枝完二「毒婦歴」日東堂(大正5年)の装幀。  

 

昭和6 (1931) <満州事変>

*「東京パック」11月号発禁。

・時事新報社も経営不振で、楽天の「時事漫画」は7月から「漫画と読物」と改題し内容一新。

 

昭和7 (1932) *「東京パック」また度々の発禁と改変。

・ 2月号発禁。

・ 4月号より、定価20銭27ページから15銭19ページに値下げし、当初は順調だったが物価の高騰などにより、10月号からサイズをB4版へ大型化、全巻オフセット印刷、15ページ、定価20銭に改訂。

・ この頃より寄稿者たちも検挙されていく。

・ 11月号発禁。この月は他誌もぞくぞくと発禁。

・ 資金の安定化を目指して、「漫画フアン聯盟」(半年か一年の誌代前納で漫画内報配布)の会員を募り続けるが、目標の人数に達せず、活動がないままに昭和12年3月号あたりで、うやむやに。

 ▽「時事漫画」162p14 所蔵:さいたま市立漫画会館 

*楽天が7月に時事新報社を退社、10月「漫画と読物(時事漫画)」終刊。

 

<五・一五事件>

 

昭和8 (1933) <国際連盟脱退>

昭和9 (1934) *「東京パック」4月号から23ページに。

・ 7月号、9月号の発行確認出来ず(『第四次「東京パック」要覧』美術同人社刊より)、原因は発禁、押収、起訴? 

・ 「追跡『東京パック』」には、この頃に下田氏から寄稿者の藁他三次郎への借金返済出来ない窮状の手紙、大田耕士氏による寄稿者へ満足に原稿料を払ってない談など、厳しい運営状況が記されている。

 

昭和10(1935) この頃から奇病(パーキンソン病)が発症するも、編集に従事。

・ その症状は、手が震えて、食べ物を口に運ぶ事もできない、時には大きく、収まると小さな震えに戻ると言う具合であった。

 

*1月号の発行確認出来ず(『第四次「東京パック」要覧』美術同人社刊より)。 

・ この原因も発禁、押収、起訴?

・ この頃仕事を手伝っていた佐藤隆二氏によると、発行部数は少ないときは5千部、多いと3万部。「追跡『東京パック』」より

           

昭和11(1936) <二・二六事件>

 

*「東京パック」次々と未刊?

・ 3月号、5月号、8月号、10月号、11月号、12月号の発行確認出来ず(『第四次「東京パック」要覧』美術同人社刊より)。上記の状況と同様か?

 

6月が絵を載せた最後。10月頃には編集の仕事から離れていたと思われる。

                      

昭和12(1937) 仙台の帝大付属病院に入院。

・ 入院中の稠のもとへ1月11日付けで大日本雄辯會講談社社長野間清治より、見舞い状が届いている。

・ 「追跡『東京パック』」で妹の子息の話によると、稠の東北帝大での治療は昭和15年(と思いますが)。記憶違いか、二度にわたり治療を受けたのかは不明。

 

*「東京パック」2月号の発行確認出来ず。

・ 3月号は7ページ(従来の三分の一)で発行。4月〜13年3月(1937年〜1938年)一年間の休刊。

 

<日中戦争、起こる>

 

昭和13(1938) この頃、大阪でキクと娘三人(澄江、16歳、女学校3年)で暮らし、後に稠が来る。

・ 母キクは、歌島橋あたり(大阪)の家守をまかされ、家賃を集めていた。(次女澄江の談)

・ 稠は若い時から、冷水摩擦をしていたらしい。具合が悪く成っても、よく澄江が体をタオルでこすってあげていた。

 

* 「東京パック」復刊。

・ 定価20銭15ページとなり、4、5、8、11月号を発行、しかし中身の再掲が多数。内容は軍国調をよそおった絵や漫文で、おもに慰安袋用か?

 

<国家総動員法、施行>

 

昭和14(1939) *「東京パック」1月と4月しか発行確認出来ず。

 

<国民徴用令、公布><第二次世界大戦、勃発>

 

昭和15(1940) 東北帝大の医学部で治療?

・ この頃に、東北帝大の医学部にいい先生がいるというので、嫁いだ妹のもと(仙台?)に二、三ヶ月滞在し治療を受ける。治療後はだいぶ治まり帰るが、もう絵は描けない状態だった。と「追跡『東京パック』」では取材しているが、昭和12年に記したように年代の記憶違いか、帝大で二度にわたり治療を受けたかは不明。

 

*「東京パック」5月と8月しか発行確認出来ず。

           

<日独伊三国同盟、結成>

 

昭和16(1941) 大阪にて、妻と娘三人で暮らしていたが、1月26日に他界。享年55歳。

 

*「東京パック」この年に3月号だけを発行して、第四次「東京パック」終了。

・下田氏は昭和18年に突然他界(カニを食して中毒)。

 

<太平洋戦争、勃発>

 

 

*上記以外に「読売新聞」に勤めていた時期があるとの話があるが不明。

   

これを記載するにあたり、「さいたま市立漫画会館」を訪問させて頂いたおり、館長及び学芸員の方が丁寧に対応して下さった事が大変助かりました。所蔵する祖父在田稠の原画などをわざわざ揃え閲覧させてくれるばかりか、関する文献も蔵書の中から抜粋し、まとめた写しを資料として渡して頂いたのです。只々深く感謝しております。申し訳ないのはその時に必要を感じず、出典元の書籍名などを聞き逃してしまい、ここで文献の正確な情報を表記出来ない状態になってしまいました。以下に参考文献を記載しますが、頂いた資料からも多くを参考にさせて頂いています。

 

参考文献

 

生田誠(2013)「明治の京都 てのひら逍遥:便利堂美術絵はがきことはじめ」便利堂.

 

ウィキペディア フリー百科事典(2015)「時事新報」,<http://ja.wikipedia.org/wiki/時事新報>(参照2015−2−3).

 

落合道人(2012)「膨大な作品が欠落したままの漫画史。気になるエトセトラ」,<http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-08-18>(参照2015−2−3).

 

「芥川龍之介「我鬼窟日錄」 附やぶちゃんマニアック注釈」,<http://homepage2.nifty.com/onibi/gakikutu.html>(参照2015−2−3).

 

KANDAアーカイブ神田学会2002−2015)「神田資料室 神田貼雑独案内1」,<http://www.kandagakkai.org/archives/article.php?id=000214&theme=029&limit=20&start=0&sort=k>(参照2015−2−3).

 

北沢楽天(2000)「復刻 東京パック 第8巻」龍渓書舎.

 

「近代日本版画家名覧 p64」,<http://www.hanga-do.com/img/Hangadomeiran101.pdf>(参照2015−2−3).

 

高 晟埈「在朝鮮日本人漫画家の活動について―岩本正二を中心に」,<http://kinbi.pref.niigata.lg.jp/pdf/kenkyu/2014/14ko_2.pdf>(参照2015−2−3).

 

国立国会図書館サーチ(2012)「少年倶樂部 2(2) 大日本雄弁会講談社,大日本雄弁会」,<http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000154084-00>(参照2015−2−3).

 

国立国会図書館サーチ(2012)「少年倶樂部 2(3) 大日本雄弁会講談社,大日本雄弁会」,<http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000092785-00>(参照2015−2−3).

 

国立国会図書館サーチ(2012)「少年倶樂部 5(2) 大日本雄弁会講談社,大日本雄弁会」,<http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000127669-00>(参照2015−2−3).

 

国立国会図書館サーチ(2012)「少年倶樂部 6(6) 大日本雄弁会講談社,大日本雄弁会」,<http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000192839-00>(参照2015−2−3).

 

国立国会図書館サーチ(2012)「少年倶樂部 10(8) 大日本雄弁会講談社,大日本雄弁会」,<http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000148563-00>(参照2015−2−3).

 

国立国会図書館デジタルコレクション(2011)「東海道漫画紀行」,<http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/964445>(参照2015−2−3).

 

「さいたま市立漫画会館」,<http://www.city.saitama.jp/004/005/002/003/001/>(参照2015−2−3).

 

「スター漫画漫談 : 日本欧米映画俳優似顔漫画集 在田稠 編」,<http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/737251.html>(参照2015−2−3).

 

高島真(2001)「追跡『東京パック』:下田憲一郎と風刺漫画の時代」無明舎.

 

徳田秋聲記念館(2015)「館報『夢香山』創刊号」,<http://www.kanazawa-museum.jp/shusei/mukouyama/pdf/kanpo_01.pdf>(参照2015−2−3).

 

「白馬会研究所について」,<http://www4.famille.ne.jp/~okazaki/hakubakai.htm>(参照2015−2−3).

 

「古本中毒症患者の身辺雑記 2009年09月03日 田山花袋『妻』(大正4年)」,<http://blog.livedoor.jp/hisako9618/archives/51692424.html>(参照2015−2−3).

 

「文藝通信総目次・執筆者索引: 昭和8年10月~昭和12年3月 小田切進 編集」,<https://books.google.co.jp/books?id=0HbZhycDsuoC&pg=PA218&lpg=PA218&dq#v=onepage&q&f=false>(参照2015−2−3).

 

「平成21・22年度 渋谷区立松濤美術館年報 第15号 p64」,<http://www.shoto-museum.jp/11_business02/0204_Shoto_15.pdf>(参照2015−2−3).

 

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