1970年、日本万国博覧会(大阪万博)が開催された。
 それは戦争から奇跡の復興を成し、築き上げた近代文明と科学技術にて、尚も素晴らしき未来を日本が夢見た大イベントであった。
 しかし其処は…「四神相応の地」であり、陰陽師によって幾多の神秘技法が施されていたのだ!!!

四神相応の図

   
 大阪万博(日本万国博覧会)の取材をしていた時、偶然ある人物に出会った。
 そして現在は修験の行者だと言うその老師に懇願され、これはその口述を記録したものである。
 彼は真摯に誠実であったが、内容は荒唐無稽であり証拠も存在せず、真偽については読者に判断してもらうしかない。
 
 長くはあるが本人の希望で全文を載せた。
 また出だしの語り口は妙であるが、それも彼のこだわりである。
 
 
会場風景1
ー 行者の話(2017年9月16日/大阪府吹田市某所にて)ー
 
 今から語る事は年寄りの戯言、フィクションじゃ、くれぐれもそこを忘れぬようにしてくれ。
 ただ興味を持ってもらう為に、実は闇の真実を残す為の手立てだと言っておこうかのぉ。作り話の形を借り、公に語れぬ事を記しておこうと言う訳じゃなぁ。
 舞台の中心は今から凡そ半世紀前に開催された「日本万国博覧会」。今は「大阪万博」と呼ぶらしいのぉ。そんな名称は当時まるで無かったのに物事とは風化だけでなく、しれっと変異もしていくわい。ゆえにワシもこれを語る必要に迫られた次第じゃ。では、話すぞ。
 
 さてその大阪万博開催が決定した時、ある組織が作られ、ワシもそこに配された。そもそもはワシの師が万博誘致段階から、あるアドバイスを求められ答えておってなぁ、開催準備が本格的に始まると重要事項として特別プロジェクトが発足したのじゃ。
 
 組織名は「高次事象対策室」、何の事やらピンと来ぬじゃろう? その曖昧さが狙いであるし、実際にその名が使われる事もほとんど無かった。なぜならその組織は秘密裏に設けられ、公には活動せぬ事が求められたからじゃ。
 何らかの事情で発覚し追求を受けた場合に備え、偽の活動内容も決められておった。台風や地震、また害虫、鳥獣被害など、予測困難な危機を想定し対策を扱うと言ったものじゃ。また更に、その誠の実態は当時盛んであった反体制運動の対処を公安警察とは別に進める秘密組織だと、偽りの設定が二重に用意されていた。ご苦労にも定年近い窓際族の官僚二人が、ダミーの活動書類を作らされておったのう‥日の目は見んかったが‥。
 そんな訳で必要な時は、もっぱら「D.S.R/ディ・エス・アール」と称していた。「高次事象対策室」を英語表記して「Drastic Security Room」の略語としていたが、発案者によると実は「Douman Seiman Ryou/ドーマンセーマン寮」と言う仮称の略であったらしい。まあどうでも良い話じゃが、ただ極秘に動くには、カモフラージュを兼ねた意味の分からぬその語が便利で重宝した。「本日午後三時から『D.S.R』の会合です。」と言った具合じゃ。
 
 もったいぶった感じになってしもうたのう。そろそろ組織の真の正体目的を述べよう。
 
 ワシらの任務は、大阪万博が成功裡に万事終了するよう、神秘儀法を駆使する事だったのじゃ。つまり科学では解明出来ぬ、占術や呪術の力によって邪を払い、万博開催を安泰へ導く。しかも巨視的な目で、敷地全土に施そうと言う大規模なものじゃった。
 
 なぜ秘密裏に進められたか、これで分かったかのぉ?
 科学の世紀と呼ばれる20世紀に、日本が威信を掛けての国際的大イベントじゃ、占いや迷信が関わるなど許されるはずなど無い。祈願する程度ならまだしも、それ以上に人と金を費やしているとはとても公表出来ぬ。
 不思議かな?そんな大きなリスクを抱えて、認められぬ非科学的な、おまじない計画を進める事が‥じゃが皆が思っておる以上に日本は、そういう事にこだわって近代化して来たのじゃ。
 行政とて例外ではないし、顕著とさえ言える。反対に質問しよう。なぜ未だに、新たな建築をする前に地鎮祭を行う? 無縁墓を整理するのに公務による供養が必要か? 役所仕事とて祝賀で縁起の悪い“忌み言葉”は許されぬ。公共施設の神棚、事故物件の告知義務、神代よりの慣習。可笑しいとは思わぬか?すべてあれこれ理由をつけて、まかり通っておる。
 
 さて此処らでワシの事を語るのが良かろうなぁ。
 えらく乱暴かつ簡単に表現すると、ワシは陰陽師じゃ。昨今ブームが起こり、誤解を招く事甚だしいが、大凡のイメージはしてもらえるかのぅ。陰陽五行の理を基に、占術、呪術、祭祀を行う者。
 明治政府によって廃されて以降、朝廷に仕えていたような陰陽師の職務は途絶えてしまった。その結果、下野した陰陽師また陰陽道は既に流出していた傍流と共に分散と変容をする事となった。ワシの脈絡も明治に下野し、真言宗と統合された当山派の修験道と合流した一派じゃ。その時代は俗化を余儀なくされ、多くの派は精粋なる修術を失って力量を脆弱化させたと聞いておる。しかし幸いにも我が派は真言の有力な僧侶の庇護を受け、厳存し「陰陽修験陣衆(おんみょうしゅげんじんしゅう)」と名乗った。
 そんな中で希代の達人と呼ばれた、ワシの師が現れたのじゃ。若くして才を発揮し、その占術、呪術は群を抜いて見事であったらしい。
 しかし太平洋戦争が始まると徴兵され南方へ出陣し、終戦後無事に帰国するが、その間の事は多くを語らなかった。師のような方でも、若かったとはいえ戦争の狂気に抗えなかったのじゃな、恐ろしい事じゃ。そして戦後の混乱期になると、元戦友や上官に度々招かれて、家相や商売の相談を受けるようになった。推測するに、死線を彷徨う戦場においても師の力は絶大で、皆が目の当たりにし、多いに助けられたに違いない。そんな経緯でやがてその卓越ぶりが評判となると、国政レベルの場にも呼ばれるようになったらしい。先に述べた通り、政(まつりごと)においては決して希有な事ではなく、師以外にも数人、数派が常連であったそうじゃ。
 
万博周辺の地形
 ワシが師に弟子入りしたのはその頃、昭和30年、1955年じゃった。戦災孤児のワシを引き取ってくれたのじゃ。その恩に報いるため、修行に明け暮れ励んだ。「お前はストイック過ぎや、余裕がなければ人の心に添えん様になるぞ!」と師に叱咤されたが、荒行を求める貪欲は止まなんだ。おっと‥こんな修行の件は要らんのぉ‥飛ばそう。
 世紀末に師は亡くなられた。直ぐにワシは頭(かしら)へ選ばれたが、人格者であった師の如き幅広い活躍は出来ず、一派を維持するのが精一杯じゃった。幾ら技を巧みに習得し熟練しても、粗野な性分ではいかんという事じゃなぁ。今は次なる後継者に席を譲り、山に独り籠っておる。
 
 さて必要な前置きはこれで十分じゃろうか?ここからが本題じゃ。
 
 
 まずは昭和39年、1964年の春だと聞いておる。ワシの師が大阪府庁の会議室に招かれ、指南を求められた。
 それまで度々、府内の事業に関わっていたが、その日はなぜか何時に無く吉方にこだわり向かったそうじゃ。そんなただならぬ予感をしていたが、大規模な「万国博」の構想を聞き、さすがに驚いたと言っておった。
 10月に開かれる東京オリンピックへ向けて日本中が盛り上がっておる頃じゃぞ。そんな大イベントが控えているのに、もう次なる国際的イベントを用意しようと言うのじゃ、しかもその催しは半年も続く。
 最初に開催自体の善し悪しを問われ、占術の後に「成すべし」と答えたが、既に誘致の意向はかなり固まっていたらしい。最も求められたのは開催地の選定であり、幾つかの候補地がもう上がっていたそうじゃ。中には府外の琵琶湖畔などもあり、様々な条件の場が用意されていたが、師は迷わず千里丘陵を選んだ。
 その場はそれで終了し、次に声が掛かったのは翌年の昭和40年3月。再び候補地の選定を求められ、今度は大阪、兵庫、滋賀から三カ所が挙げられ、それに伴って考えられる新たな道路整備の計画などの情報も付加されておったそうじゃ。あえて紹介はされなんだが、会合には多くの代議士と官僚がおったらしい。1年余り経っての再要請と集まったメンバーから、よほど政治的決断が難航していると悟った師は、丁寧に陰陽道を説き、また千里丘陵を提示した。
 ほどなく会場は千里丘陵に決定した旨と、引き続き極秘で博覧会に陰陽道を施す為の組織作りを依頼されたそうじゃ。
 
 実際に以上の経緯をワシが聞いたのは、昭和40年、1965年の5月。ワシを含めた五名の輩が師に呼ばれた時じゃ。師はこれまでの進展を含めて博覧会の話、そして会場へ施す術の大凡の構想を述べた。それらをワシらに示し、これからの活動はこの顔ぶれで進める事と、他言無用を言付けた。
 さすがにワシも地図を一目見て、師が迷わず千里丘陵を選んだ意味が分かったわい。陰陽五行説における、繁栄する都を築くにふさわしい条件を満たしておったからじゃ。
 繁栄する都とは「四神相応」の地、東西南北を神獣に護られた都じゃ。北を護る神獣は「玄武」、南は「朱雀」、東は「青龍」、西は「白虎」。四神がそれぞれの方位へ宿るには、地勢に特徴がある。その特徴を地勢が得ていれば、都は良き「」に満たされ栄える。手描きの四神相応の図
 「」とはいわばエネルギーの事じゃ。
  
四神相応」の地勢とは如何なるものか、説明するぞ。
 専門用語が多く、しかとは理解出来んじゃろうが、まぁ聞いてくれ。
 
 「祖山(そさん)」なる高き山よりは生じ、連なる山々の尾根伝いに流れ、小高き山の「少祖山(しょうそさん)」に至る。
 更には流れ、より低き山「父母山(ふぼさん)」を通る。
 そのの経路を「龍脈(りゅうみゃく)」と呼び、山並みが盛んなる龍の如く大いにうねれば、練られ良きとなる。
 そしては開けた平野部に至り「(けつ)」に結ぶ。「」とはまたの名を「龍穴」と言い、が吹き出す、発現する所であり、その平野部を「明堂(みょうどう)」と呼ぶ。すなわち「明堂」は良きが溢れる所と成る。
 此の時、「父母山」と成るは「玄武」の宿りし場であり、「明堂」「」より北方に在らねばなら無い。
 気は風に乗ればたちまち散り、水に界せらればたちまち止る。東西には風によりが散ってしまわぬように「(さ)」なる地勢がいる。
 「父母山」を人の頭と見なし、そこから手を伸ばして「明堂」を包み囲んで護るような山また丘陵で、東は「青龍砂」、西を「白虎砂」と呼ぶ。
 さらに「青龍」なる東は豊かな川の流れ、「白虎」なる西は往来なす大道となすべし。南は「朱雀」、広大なる平野または湖水にて、「明堂」にて満ちるが滞らぬようにす。
 広大なる平野は疲したを流し放ち、湖水は流れしを溜め置くなり。
 そして更に小高き「案山(あんさん)」そして「朝山(ちょうさん)」があり、流れ行くの勢いを緩やかに整える。
 これ成るが理想たる「四神相応」の地勢地相にて、この「明堂」に都を構えれば安泰なり。
 
 難解じゃろうか?では分かりやすく開催予定地に当てはめ具体的に述べてしんぜよう。
 
 開催予定地の北方には北摂山系が連なっている。その最高峰は深山(みやま)であり、それが「祖山」となり、そこから「」すなわち大いなるエネルギーが生じているのじゃ。生じたは地表下を沿い流れ、南方に向かったものは剣尾山妙見山の尾根をぬたくり進み、練られた良きとなる。気圧や川幅の変化によって、風や水流の勢いが増すのをイメージすれば分かるかのうぉ。
 さらに」は緩やかに下り、再びやや高さ成す鉢伏山、すなわち「少祖山」に至る。そしてまた起伏する千里丘陵に達し、これが「父母山」となる。実に見事なの経路、血気盛んに躍動する龍の如き「龍脈」じゃ。
 
 開催地は千里丘陵の中央東部を切り開いて整備され、まさに「」そして「明堂」と成る。丘陵の緩やかな高低を越えて来たは開催地に達し、その「」から地表へと吹き出し、「明堂」たる会場全域に満ち渡る。最初の頃はまだ決まっていなかったが「」にあたる処には、お祭り広場が設けられたのう。
 
 つまり開催地は、台地となっておる千里丘陵の中央東部に作られた低き土地。逆に見ると開催地は丘陵の高き部分に囲まれている。この高き囲みが「父母山」と言うことじゃなぁ。
 よって千里丘陵の東が父母山の「青龍砂」、西は「白虎砂」となるのじゃ。
 
 「青龍砂」である丘陵東側、その先には茨城川および神崎川と合流する安威川があり、更にその東には大河なる淀川が北東より南西に流れている。「白虎砂」なる丘陵西側の先には、道の直結した千里2号線箕面三島線が通る。その西には大阪府道大阪箕面線じゃ、今は新御堂筋ー国道423号と呼んだ方が分かり易いかのう。さらに先には国道176号線。それらの盛んなる「青龍」「白虎」の地勢は、利便と賑わいを実質的に会場へもたらす。そしてそのパワーはバリアーの如く「明堂」のを外に散らさぬように囲み護るのじゃ。北摂山系
 また河川は水の道なり、また道は物の流れる所であり、古(いにしえ)の河川である事多し、つまり道は河川と同等なる効験を成すと言うことじゃ。開催地の東に通る国土の大動脈たる名神高速道路東海道本線新幹線は、さながら大河であり、強大な力をもたらす。西の山田川も微細ながら、古来より人々の生活を支えて来た河川であり、秘めたる力は大きい。
 
 さて「朱雀」なる南の広大なる平野は、まさしく大阪平野じゃ。「明堂」を栄えさせ、費やし希薄となったは開催地南端から山田一帯を通り、吹田市の南へと流れ、大阪平野に広がり大阪湾へと散っていく。山田の東部、またその南はまだ起伏する千里丘陵。それが「案山」「朝山」となり、の流出を穏やかな流れへと整える。残念ながらを溜め置く大きな湖や池は無いが、幾多の小さき池が点在し、一助の働きをしている。
 
 どうかな?万博開催地は「四神相応」の条件に極めて当てはまるであろう。これは余談だが、万国博の概要を述べた当初の冊子が配布されてのう。会場の地勢をまるで「四神相応」の地であるかのように紹介している文脈があり、当時ワシは笑ったのを覚えておる。
 
 更に日本で発達した独特の地相じゃが、邪気が入り込むのは北東と南西の方角からとされておる。いわゆる「鬼門」「裏鬼門」と言われるものじゃ。古来より「四神相応」を備えた都では、その方角に神社仏閣を配置して護りを固める。なんと万博開催地から北東には、あまたの寺社を有する京都がある。
 数々の災厄に襲われながらも、古より存続する都。近年も太平洋戦争の最中、多くの都市が焦土と化したのに京都は空襲を免れた。米国による作為であるか、単なる偶然であったか諸説あるのは聞いておるが、とにかく京は護られたのじゃ。知っておるか?公式には京都は今なお、天子の座す都、首都なのじゃ。東京に皇居を構えるは行幸なる名目であり、遷都の詔書は発効されておらぬ。全域にが漲っておる、今風に言うなら、京都全体が強力なパワースポットじゃなぁ。
 万博開催地は「鬼門」の護りを、京都に託した地相となるのじゃ。
 
 そして師は更に工夫を凝らした。今までの事は既にある地勢に、「四神相応」を照らし合わせ読み解き、開催地を設定したにすぎない。此処からが師による独自の施しとなる。
 
 師は予定敷地の北東と南西の角を、大きく削り取ったのじゃ。新たに造り上げる地であるのに、整然とした印象の無い、何とも妙な形であった。違和感はあったが、しかしそれは北東と南西の角を無くし「鬼門封じ」とする見事な術じゃった。
 思えばそれは極めて江戸城の作りに似ておる。江戸城は堀を渦巻き状に取り囲ませ、「鬼門」「裏鬼門」の角を無くしてある。そして実際、徳川幕府は長年の太平を手に入れたのじゃ。師はその事実を大いに参考にしたに違いない。
 万博周辺の交通網
 さて「裏鬼門」へ配する寺社に関しては、師が示した地図に具体的な記載は無かった。「裏鬼門」の方角に幾つかの赤い点が記してあるだけで、説明も無く、その後も語ってくれなんだ。しかし師が何の手立てもせぬ訳は無い。
 これはその後、1年程経過した1966年、昭和41年の秋口あたりの事じゃ。師がワシら輩を伴って造成地の現場を訪れた時、見かけぬ人物が現れ、師と挨拶を交わしておった。ワシら同様その者も背広姿であったが、物腰から神職である事はすぐに分かった。
 帰路で師は、先ほどの人物は「泉殿宮(いづどのぐう)」の方であり、公式なる祭事の全てを務めて頂く、とだけ伝えてくれた。そこは開催地の吹田市に鎮座する神社であり、報道され記録に残る、地鎮祭、立柱祭などの祭典は、実際「泉殿宮」が執り行なった。
 その夜に輩と話していると一人が、件の宮についてやや詳しく知っておった。これは輩達と交わした憶測の話じゃが‥
 
 「泉殿宮」は大塩平八郎と大きな関わりがある。祭事を任されたのは、単に開催地である吹田に建立しているだけでなく、それが真の仔細であろう。
 大塩平八郎は江戸時代の人物で、大坂町奉行組与力の時から、不正を数々暴き正す、気骨ある義の者であった。辞した後も、儒学を学び奉行の顧問的立場として、悪政と戦い続けた。しかし大飢饉に民が苦しむ中、融通の利かぬ怪しげな行政と私腹を肥やす豪商に業を煮やし、戒めるべく、武装蜂起する。天保8年(1837年)の「大塩平八郎の乱」じゃ。蜂起は直ぐに鎮圧され、その後平八郎は自決した。
 その時、彼の叔父は「泉殿宮」の宮司を勤めており、そして蜂起に加担していた。あまりに早く鎮圧された為に、実際の蜂起に参加出来なかったが、自ら命を絶ち、更に主立った者たちと共に遺体は磔の刑となった。また刑は宮司の家族まで及び、子供達は島流しとなる。明治になり、赦免された三男が「泉殿宮」に戻り、宮司となったと言うことじゃ。
 とかくクローズアップされる事は少ないが、この事件が幕府に与えた衝撃は多大で、大政奉還を進めた大きな要因と言える。
 
 さて此処でワシら輩が想起したのは、天満宮神田明神じゃった。天満宮は朝廷から理不尽な扱いを受けた菅原道真公、神田明神は逆臣として討伐された平将門、それらの凄まじい怨念を恐れ彼らを奉っておる。朝廷や幕府に対して、激しい恨みを抱く怨霊を祭祀によって昇華させ、守護神として奉る。古来より行われて来た鎮護国家の手法じゃ。
 「大塩平八郎の乱」の後に日本の各地を襲った大地震、そして争乱、とてつも無い政変。平八郎の怨念と結びつけ、社寺にて確と奉り、守護神と成す策が思索されなかったはずは無かろう。しかし明治政府となり、欧米列強に習い近代化を進め、陰陽寮も解体される時代と突入していた。人々の知らぬ所で、密かに祭祀が行われたに違いない。
 ワシらの師は、その詳細を知っていたのであろう。その吹田ゆかりの守護神の霊験により、吹田にて開催される万博を護って頂こうと考えたのだと、ワシらの話しは行き着いた。
 
 「泉殿宮」とその縁のある「春日神社」などの地は、かって師の示した地図にあった赤い点と符合している。そしてそれらを結ぶと、一直線上に並んだのじゃ。地図に描くと、開催地の南西、「裏鬼門」の方角に対して垂直となる線。まさしくそれは「裏鬼門」より迫る邪気から開催地を護る、巨大な障壁のようであった。おそらくそれらの地勢を使い、何らかの呪術が施されたのであろう。
 そもそも「春日神社」の総本社「春日大社」は中臣氏、後の藤原氏じゃな、が自身の氏神を祀る為に創設した神社じゃ。中臣氏蘇我氏を滅ぼした歴史的な大因縁があり、そこにも数々の祟りが生まれておる。祟りを恐れて奉ったと言う話は細々と伝わっておるが、先に述べたように、その怨念を昇華させ守護神として格別に奉った事実は伝わっておらん。大塩平八郎の件のように何らかの事情によって、神職の端くれであるワシなどが知る由も無い所にて、ひた隠しに奉られておる可能性は十分あるとは思わぬか?そうなればそれは「春日大社」であろうとワシは想像する。
 そう考えると鬼門の方角にも「春日神社」が点在し、中臣氏ゆかりの神社も存在する。それらに鬼門封じを担ってもらっておるのかも知れん。
 師は「泉殿宮」から「春日神社」ネットワークの絶大なる鎮護国家の力を賜り、万博会場の鬼門裏鬼門を護って頂くと言う大規模な方策を施したのかも知れん。もちろんこれもワシの下衆な憶測じゃが、自分では限りなく確信に近いと思っておる。
 
 師の独自なる策はまだ在るぞ。これらは憶測ではなくワシもしかと関わった所じゃ。
四神ー会場地図
 会場を真っ二つに割るように大阪中央環状線が東西に通る事は、開催地が決定した段階で揺るぎない決定事項であったそうだ。東西の「」を貫き、「四神相応」の構えを崩しかねない。しかしながら活力ある道の流入は、会場に賑わいをもたらし、博覧会を成功に導く利もある。師もおそらく苦慮したのであろうか、大胆な構想を練っていた。
 それは会場周辺を一周する道路を新たに設けると言うものじゃった。大道の生み出すパワーが円軌道に乗り、周回を繰り返し、侵入する邪をはね除ける。はっきり言って、ワシは度肝を抜かれたぞ。会場内のが中央環状線を通じて流出するのを防ぐ、新たな防護壁となる「」を加えたのじゃ。またそれは「四神相応」の地の中に、更に結界を張ったとも言える。師の最大の真骨頂と言えよう。
 
 
 ここらで休憩を貰おうかのぉ。絶えず心中にはあったが、万国博の事を口に出して語るのは久方ぶりじゃて、思ってる以上に神経を使っておるのか、えらく疲れを覚えるわい。
 
 
 (30分ほどの休憩を経て、再開)
 
 
 さてと、組織についてまだまだ話してなかったのう。
 やや時が前後もするが、その体制のところから再開しよう。
 
 1965年の4月、初めて万博の話しを聞いてから、ひと月も経たないうちに先に述べた「高次事象対策室」が組織された。
 もちろん師が中心と成ってじゃが、かりそめ的に室長は通産省から来た官僚が納まった。立ち上げの時に一度会ったが、以後顔を合わす事も連絡を取る事も無く、本当は実在せぬ人物で在ったかも知れんのぉ。そんな訳で師が、入院治療中の室長から特殊な危機管理の専門家として、全権を委託された副室長と言う肩書きで、実質はトップを務めた。
 その下にワシら5名の輩が居り、師の定めた祈祷を日々行うのが主な役であった。
 相談役として真言宗、天台宗、華厳宗、和宗、神社本庁から各一名が名を連ねていた。彼らはそれぞれの寺社の警備係や危機管理課から、大規模な祭祀運営のオーソリティーとして出向しているとの事じゃったが、それも真偽のほどは分からん。ただ定期的な会合に出席し、構想と進行状況を聞いて帰るだけ、もちろん一切の書類は作られなかった。師が前もって、普段から鎮護国家の司祭を担っている各団体へ、よほどの事が無い限り今回は口出しせぬような条件を取付けたのじゃろう。
 さてもう一人、室長補佐役として通産省から佐々木格之進なる若い官僚が来ておった。彼もまた私的な会話をまるでしない、身分を詐称しているであろう謎の人物であったが、実に頭の切れる有能な逸材であった。彼の主な役割は他組織との折衝と調停で、それは見事な手腕を見せた。思考も柔軟でのう、大抵の官僚は頭が固く融通の効かん奴らばかりなのに‥おおう、遺憾、遺憾、すぐ愚痴が出て人を不快にさせてしまう、ワシの悪い癖じゃ。
 例えば、先の会場を周回する環状道路に関しても、実現するには協会、財界、建設省、運輸省、通産省の権利利害が衝突する。各上層部が陰陽道の事を知っていても、下部を納得させるには実質的かつ具体的な根拠がいる。そこで彼が、道路を築く事が如何に有効であるかの現実的理由を作り上げ、最良なる各組織の役割分担を導き、根回しをする。秘密裏にな。
 おかげで師の掲げた思惑はほぼ実現されたと言って良いじゃろう。こう言うのも何だが、我らがほぼ関わる事の無かった鉄道関係の進行は、ずいぶん揉めたようじゃぞ。
 唯一彼が折衝出来なんだのは、会場北西の敷地ぐらいかのぉ。本来会場内の北西はもっと広く四角のはずじゃった。だが青空駐車による交通マヒを心配し、少しでも駐車場を増やしたい意見との調整が着かず、会場敷地を削り駐車場とする事となってしもた。おかげで会場の北口は北西口と言って良い位にズレて、理想的なの流れは断念せねばならなかった。まあ駐車場確保と言う理由は本題でなく、実は北口の位置を変更するのが目的だったらしい。そうせねばならなかった理由は迎賓館じゃ。多くのVIPを迎える事となる迎賓館が、景観を重要視して日本庭園内のその場所だと早い段階で決まっておってのう、それはどうしても北口と隣接してしまう。大阪府警は万全なる警備体制を敷く為に、都合の良い位置へ北口を変更する事が絶対必要だと結論した。なのでそこは一歩も譲れなかったのじゃなぁ。その証拠とは言えんが、実際に開会すると駐車場はガラガラじゃったわい。
 
 
建設中
 それから1年半ほどはワシらに大きな動きは無く、もっぱら日々の祈祷に明け暮れておった。
 師は会場内の区割りに関して思索を続けておったが、まずは協会組織の計画を尊重する事にしておった。場内の池や川などはより良き配置を示唆したが、通路などに関しては希望も提示せんかったらしい。シンボルゾーンなどの構想もまだまだ決定しておらず、こちらの理想を先に実現出来る段階であったが、祭りが窮屈になっては面白くない。決定した物を受けて、陰陽道による吉凶を考え、改良点を提案する、と言った段取りじゃ。この広場は道幅分だけ南にずらした方が良い、ここの植栽は増やすべし、などじゃな。
 まあ、師曰く「名のある設計士に成れば成る程、もともと風水を密かに考慮しとる、そんなに不味い事にはならん」。言葉通り、上がってくる基本計画に対して大幅な提言をする事や悩む事はほぼ無かった。
 ある日まではなぁ。
 
 それは昭和42年、1967年の7月じゃ。もうシンボルゾーンや各パビリオンのアイデア、基本構想がどんどんと決まって行っている頃。
 協会本部から師はずいぶん浮かぬ顔をして帰って来た。問題が生じた時は、図面や地図と羅盤を並べて思案するのに、そうではない。羅盤とは正式には風水羅盤(ふうすいらばん)、風水の方位を調べる道具じゃが、あまり他の陰陽道では使わぬのうぉ。師は瞑想し、何やら筮竹(ぜいちく)‥占い師がよく使っている細い竹じゃ、これにて占術をし、溜め息をついておった。そんな師を見たのは初めてじゃったので、沈着冷静な師をそこまで追いつめる事態があるのに驚いたわい。
 ところが半月程経ち、また協会本部から帰って来ると今度は笑っておるのじゃ。そんな師を見るのも 初めてで‥ゆえに鮮明に覚えておる。
 破顔しながら、「けったいな人間が居るもんやなぁ。真面目にてんご(大阪弁、意味は『悪さ』『いたずら』『ふざける』など)しよる。どえらいこっちゃ!」とワシらに声をかけたのじゃ。困惑した輩の一人が「重大な問題が起きたのですか?」と聞いた。すると師は「いや‥」と間をおいて、「これからや‥やたけた(大阪弁、意味は『むやみ』『やたら』『やぶれかぶれ』『無謀』など)でオモロい事になりよるぞォ!」と返答し高笑いした。
 間違いなくそれらは岡本太郎氏との出会いを表している、と思わぬか?最初は博覧会の中心となるテーマ館のプロデューサーに、岡本氏が就任した時じゃろう。師は早くもその得体の知れない人物に多大な警戒を感じたのじゃな。そして次に岡本氏の実際の構想や様子に接して、相当な衝撃と刺激を受けたと思えるのぉ。師は一を聞いて十を知る、また人の本質を見抜くに長けた方であるから、ワシには計り知れぬ、嬉々なる物を見たのであろう。
 その年の秋にはワシにも、師の心境が分かって来た。
 師が「太陽の塔」石膏原型の写真を見せてくれた時、自分で言うにはやや気恥ずかしい部分があるが、こんな会話をした。全くの説明無く、「どうや?」と問いかけられ、何も知らぬワシは感じたまま「至純なる神、また、呪詛に使う奇怪なる厭物(まじもの)にも見えます」と答えた。すると師は「うむ、その通りこれはまさしく、相対す多義を内在せし具象であろうなぁ、そして頭をもたげ突出した根源だ」と言った後、少し間を置き「高さ70メートルあり、これがシンボルゾーンの中央に立てられる」とワシの目を睨みつけた。咄嗟にワシは発した、本当にそれが一番に浮かんだのじゃ。「それでは『四神相応』を凌駕しかねない!破られるのではないですか!!」その反応に師は「お主はやっぱり鋭いなぁ。確かにこの塔は天地と人から『気』を八重に結集、増幅させ、滾り暴走させるやろう」「しかしこんな事態は織り込み済みや。既に手は打ってある。‥面白いなぁ。」とまた普段は見せぬ哄笑をされたのじゃ。
 その手立てとはこうじゃった。当初から会場は人口池にを蓄えるべく、すり鉢状に造成されておった。特に北の日本庭園には月山を中心になだらかな丘が続き、南はエキスポタワーのある南口へ向かって緩やかな高台と成っている。これらを利用し、会場内をまた一つの「四神相応」の地と見なしたのじゃ。太陽の塔を中心とした大屋根周辺を「明堂」、それを囲む高台は「父母山」「朝山」と「」。河川と大道となるのは中央環状線、中国縦貫道、北大阪急行。
 そして師は予てより、某御柱から切り出した一畳ほどの木版から、4体の霊符を用意していた。1体は北の迎賓館の地に蔵し「玄武」を奉じた。同様に南はエキスポタワーの地に「朱雀」、東は庭園の展望休憩所に「青龍」、西は法輪閣に「白虎」じゃ。これらの術は安泰を強めるとともに、結界ともなり、邪気と化した時にその動きを封じる。
 万国博が開催されると、やはり「太陽の塔」は強烈に注目を集め、とんでもなくを吸収した。ワシはその凄まじいエネルギーが災厄を招か無かったのは、師の思惑が機能したと思っておる。
 
 その後は会場の建設がどんどんと進み、ほとんど大きな問題は生じんかった。
 師は手洗い、植栽などの施設で数や位置の僅かな修正を指南し、ワシらは密かに会場各所を祈祷して巡る日々であった。建築の進展や運営面で様々な問題が聞こえて来たが、それらはこちらに無縁の所じゃ。
 そうそう、勘違いしているかも知れんのでひとつ付け足しておこう。ワシらの成しておる事は、まず人の活動在りきじゃ。人が歩き進もうとする時、人知を越えた部分について助けるもので、立ち止まられてはどうしようも無い。事を進める時に人々が事故の注意を決して怠らないのが大前提であり、その上でワシらが不可抗力なる理不尽に襲う邪気を払うのじゃ。人の力で解決出来る広大な事象に比べれば、ワシらの出来る事など微々たるひと欠片。まあ時折、惨禍を増幅さす凄まじい邪気があるがのぉ、故にワシらが居るとも言えるし、修行の目途はその稀なる瞬間の為にある。
 万博においても最も重要なのは、皆がひとえに成功させようと行動する事じゃ。ワシらが幾ら祈願しても、それが無ければどうしようも無い。そして開催が成功するのは、携わった人々が周到かつ旺盛に努力した結果であり、ワシらは補助にすぎん。
地底の太陽 
 さてまた話しを戻そう。
 昭和45年、1970年に入り、もうこのまま息災に開会を迎えるのだろうとワシは思っていた。あれはもう2月に成っていたのう、或る深夜、祭祀の道具を備え、師はワシらと佐々木、例の若い官僚じゃな、を伴って出かけた。
 そこはテーマ館の地下展示、「神々の森」のコーナー。岡本氏が作った「地底の太陽」なる巨大な顔のオブジェを中心に、世界各地から集められた仮面と神像が展示してあるのじゃ。照明が不十分であったので、尚のこと異様な雰囲気を漂わせていたわい。
 師はやや声高に「恐るべき男だ。これらの仮面や神像は実際に使われていた物らしい‥まさか此処まで創造するとはなぁ。」「降魔の呪術を心得てるとしか思えん所行だ。しかし如何に危険であるか分かっておらぬ、やはり何も知らんのだろう。」「『気』を損じさせて彼には申し訳ないが、魔性や祟りを宿し物もある、これより邪気を封じ込める。」と一気に述べた。
 師に目配せを受けた佐々木氏が「お願いします。」と言うと、奥から建築作業着の男二人が出て来よった。彼らが「地底の太陽」前の床を探り、一部をはがすと30cm四方程の穴がもう掘られておったわい。
 師は呪文を書いた二枚の皿をそこに埋めて、邪気封じを施し、更に「地底の太陽」の裏へ霊符を貼った。それから師とワシらは一時間ほど祈祷し、終わると佐々木氏がまた「お願いします。」と言った。男達は奇麗に穴を閉じ、霊符にも隠しのテープを貼り、まるで分からん様に実に見事に仕上げたよった。佐々木氏は彼らへ丁寧に礼を述べ、内密の念押し、そしてこの件で困った事が起これば先ず連絡して欲しい旨を伝えた。そしてワシらはそこを後にしたのじゃ。
 
 まもなく万博は開会を迎えた。
 会期中は手分けし、一日も欠かさず全エリアを祈祷し巡ったわい。大方深夜から早朝にかけてだったのう、警備員姿で何やらチェックしているような風を装ってじゃ。
 建築中もその規模に驚いたが、開催されると更にその怒濤のような様子に驚愕したのう。ワシが想像していた賑わいを遥かに凌いでいた。情けない話じゃがワシは開催を目の当たりにして、ようやく事の重大性と、なぜ師がそこまで携わったかが腑に落ちた次第じゃ。
 
 そして瞬く間に半年が過ぎ閉会した。
 幾つかの事故が生じた時、師は己の不甲斐なさを大いに悔しがっておった。目玉男の時は笑っておったがのう。ワシから見れば、あれだけの強烈な熱気に包まれた大祭りじゃ、大成功以外の何物でも無い。逆に師が居なければ、どのような大惨事が起こっていたか、想像するだに恐ろしいわい。
 
 さて万博が終了し、施設の解体が始まった。もちろんワシらは、その作業中も大事が無いように祈祷し続けた。
 師は跡地がどうなるかをしばらく静観しておった。当初は以後も活用出来る日本庭園や美術館以外のほぼ全ての建築物は取り壊し、新たな施設を加えた広大な公園になる計画だと聞いておったそうだ。つまり師は「太陽の塔」が残ると思ってなかったのじゃなぁ。
会場跡
 万博が終了しても、「四神相応」の地である事は変わらんが、多大な「気」を蓄積した塔が今後どのような振る舞いをするか分からぬ。師としては塔を解体する事を指南していたが、協会ではそれ以外の方針も流動的でなかなか決定しない。何せ、大屋根のあるお祭り広場は以後も数々のイベントに利用され、大屋根が撤去されたのも、昭和54年、1979年の事じゃったでのうぉ。
 まあ先読みに長けた師の事であるので、実は閉会間際には或る手をまたしても打っておった。会場内に収めた霊符を守る為、庭園の展望休憩所、迎賓館、そしてエキスポタワー、法輪閣を十年間は残す事を協会に確約させていた。解体作業において「太陽の塔」が最後に成るであろうと踏んで、その間の保険を掛けたのじゃ。どう言う訳か法輪閣は移築保存する話しに変わっておったが、本質は地に埋した霊符を守る事で、師は不都合無きように整えた。
 そして仮ではあったが、その策はそのままの継続する事となってしまった。
 塔を保存する声が高まり、ほぼ決定したからじゃ。塔の得た「気」が如何に莫大であったかの現れじゃろう。塔自身が存在を望み、人々の思いをそう導いたのじゃ。
 
 そう言えば、今や記念公園となり、各パビリオン跡には名残のプレートが埋めてあるじゃろう。ワシは師に跡地の庇護の補助として、パビリオン跡に鎮魂の墓標を立ててはどうかと冗談まじりで言っておった。それが反映されたのかどうか定かではないが、未だにワシには墓標にしか見えん。
 
 また「地底の太陽」が行方不明らしいのうぉ。あんなにでっかくて奇妙な造形の物が消えてしまうとは、裏に貼った霊符が何らかの作用を及ぼしたであろう事は、ほぼ間違いないじゃろのう。
 
 そして時が経ち、2003年にエキスポタワーが解体撤去された。
 師はもう亡くなっておられ、ワシはちょうど一派の何名かを伴って上海へ長期滞在を、他の輩もそれぞれ奥羽山系などで修行、指導しておった時期じゃった。撤去の話しを知らんとは、誠に迂闊であった。佐々木氏とも万博終了10年後には、もう連絡が取れんように成っていたしのうぉ。博覧会協会も博覧会記念協会と移行し、人も組織も変わって引き継ぎは有耶無耶と成り、もうワシらの事を知る者は居らんかったらしい。様々な事象が偶然にも、不幸に重なった分けじゃが、まさに邪が入り込むとはそう言う事なのじゃ。
 
 エキスポランドの事故の一報を受け急いで日本に戻ると、やはりタワー跡に霊符は影も形も無くなっておった。ワシは八方手を尽くして、ようやく秘密裏に新たな霊符を跡地へ奉じた。
 遅きに失したがのう。口惜しや、亡くなられた方にはもはや冥福を祈るしか出来んかった。
 他の輩はワシよりもう随分高齢であるし、特に師に目をかけられ多くを任されていたワシが注意を怠っては遺憾かったのに‥
 恩師には申し訳ないばかりじゃ。
 ただその後、エキスポランド跡へ建設された商業施設、エキスポシティとか言ったかのう、それが無事に大盛況に続いているのがワシには救いじゃわい。
 
 以上が大阪万博にて師とワシらが施した陰陽道の大凡ではあるが内容じゃ。記憶を想起して語ったので前後し、脱線もしたが、伝わったかのう?全貌を話そうと意気込んでいたが、まだまだ存命の方も多く、いざと成ると伏せてしまった部分も多々あったわい。それに関しては次の機会があるならば、熟考した上で語らせてもらうとしよう。
 
 最後にもうひとつ伝えねば成らん、今回の事を依頼した理由じゃてなぁ。
 今「太陽の塔」内部の再生を中心とする敷地再造成の計画が進んでおる。素晴らしいことじゃ、温故知新し、物象へ新たな命を加えていく。
 しかし一方でワシには怖くもある。太陽の塔の強い程よい状態で安定しながら、今なお生き続けておるのだが、何かのきっかけでおぞましい邪なるエネルギーを暴走させる危険をはらんでおる。
 今はワシらの施した術が、それを阻んで居るわけじゃが、その存続の危うさが高まったのも確かじゃ。
 ワシももう年じゃし、弟子達に話しを伝えておるが、もはや大阪万博の諸々を管理しているのは府と21世紀協会(正しくは「関西・大阪21世紀協会」)。確たる証拠も無く、目に見えぬこのような話しを、当時の関係者へ迷惑を掛けずに、今は何処の誰に通せば良いのかまるで見当がつかぬ。霊符を損じるような不味い事態がまた発生した時、もはや上手く対応出来るとは思えん。
 故にこれを残そうと考えたのじゃ。現在の関係各所また近い者が目にし、確かにこれらは一考に値すると判断して頂ければ最高じゃ。また現代は何が何処でどう繋がるか分からぬゆえ、有志的な者が何らかの活動を展開して実を結ぶ可能性もある。そしてワシが死に、後輩達も関われぬような状態になり、全てが闇に埋もれてしまった後で、これを必要とする者が現れるかも知れん。
 
長々とした老人の戯言を聞いて頂いて、感謝の極みじゃ。
誠に深く礼を申す。
 
そして、このフィクションが何かの折に、役立つ事を願っておる。
 
—終わりー
 
 行者は最後まで名を明かさなかった。
 現在は通信手段のない山中にて籠っており、万博跡地を年に二回訪れるそうである。
 私が出会ったのも、その時であったらしい。
 連絡を取るには「陰陽修験陣衆」を通じてくれ、との事である。

 

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